自由主義経済はどこまで正しいのか? - アダムスミスのもう一つの「見えざる手」

現代においてアダム・スミスがその著書「諸国民の富の性質と原因の研究(国富論)」の中で「神の見えざる手」として描いた市場メカニズムとその効率性を根本から否定する人間は多くないはずである。


しかし、スミスが考察したのは仮に全ての人間が利己的であっても経済は機能するという理論(メカニズム)についてであり、その意味で自由主義経済の正しさは理論(メカニズム)の正しさの枠を出ないのではないだろうか?


スミスの国富論はダーウィンの自然淘汰説に影響を与えたといわれている。 筆者は進化論に興味があり、様々な学説を紹介した本を読んできたが、どの学説でも生存競争に負けた生物は絶滅するのみである。 それは進化論が示す理論的に正しい帰結であるといえる。

しかし、だからといって現在の我々の価値観からみて種の絶滅が正しいということにはならないだろう。

理論の正しさはかならずしも理論の帰結の正しさをあらわしているわけではないということである。


抽象的な話から少し概念的な話に近づいてみる。


全ての人間が利己的である場合の起こりうる一つの状態はナッシュ均衡である。 これは囚人のジレンマの例を見ても分かるとおり、互いが自己の利益を最大化しようとすることによって、結果として両者共に現状より良い状態になりうる解(否認・否認)が得られなくなる可能性があることを示唆している。 市場がこのような状態に陥っている場合、国家が市場に関与することによって、全ての人間にとってよりよい状態を作り出すことが理論的には可能である。 (トーマス・ホッブスの言うところの「リヴァイアサン」としての国家の役割に近いか?)


但し、この種の国家の関与が必要かどうかについては異なる見方も存在する。


ナッシュ交渉解に関する議論では、政府等による外部からの強制が無くても、交渉を通じて均衡解が交渉解へと近似していくことが示されるとされており、その理論が正しければ、国家による関与が存在しなくても市場はパレート効率的な状態を実現できる可能性があり、この場合市場は既にパレート最適である為、国家の関与が全ての人間にとってプラスとなるような改善(パレート改善)を市場にもたらすことは不可能となる。


では現状がすでに市場メカニズムによってパレート最適であった場合(= 誰かの犠牲無しでは誰かの効用が改善しない状態であった場合)に国家の市場における役割は無いのだろうか?


この問いを考えるにはナッシュ交渉解の示唆するものを考える必要がある。 

ナッシュ交渉解とは交渉によって得られる均衡点は、現状を基準点とした両者の効用の増大分の「積」が最大化される点になるというものである。


これは二人の人間の間で一定額のお金を分けるときに、金持ちの方がより多くのお金を受け取ることが均衡解であるという事を示唆している。 つまり金持ちが金持ちである事のみを理由により金持ちになるというのがこの理論の一つの帰結である。(参照:最適脅し戦略

何故そうなるかを大雑把に説明するなら金持ちは貧乏人よりも1万円を追加獲得することによって得られる効用が低く、その為、よりお金を欲しいと願っている貧乏人よりも交渉力があるからである。


ナッシュ交渉解は市場メカニズムによって得られうるパレート最適の状態であり、ナッシュ交渉解による分配に対して国家が手を出すことはある面から見れば不公平であり、市場メカニズム本来の効率性を阻害することにもなる。 よってナッシュの交渉解による分配を是とするならば、国家の関与は最低限(法律の強制、不正の禁止等)に抑えるべきであり、そのことが絶対的に正しいということになる。


但し、ナッシュの交渉解は効用の総計(和)を最大化するわけではない。 先ほどの貧乏人と金持ちの間でのお金の分配にもどると、交渉力は金持ちの方があるが、実際にそのお金を手に入れた時に増加する効用は貧乏人のほうが多い。この取引だけの効用の増分の「和」を考えるなら貧乏人が総取りしたほうが良いはずである。 
この発想を突き詰めたのが社会主義であると思われるが、社会主義はうまく行かなかった。 それは恐らく個人の欲望を燃料とした市場メカニズムが機能しなくなると、経済全体の推進力がなくなってしまうからではないかと筆者は考えている。


筆者の価値観から言えば、ナッシュ交渉解で得られる結果(金持ちが金持ちである事のみを理由により金持ちになる)がベストなものとは思えないが、かといって社会主義が機能するとも思えない。本当にベストなのは長期的に見て効用の累積和が最大になるような状態ではないかと考えている。

社会主義は目先の効用の総和を最大化するかもしれないが、経済が推進力を失い、長期的な累積和は減少してしまう。一方で市場原理主義は経済を推進させ、効用増分の積とその累積を最大化する一方で貧富の差を拡大させ、累積和の最大化に繋がらない可能性がある。恐らくはその中間に解があるはずである。 (長期的に見れば市場原理主義こそが効用の累積和をも最大化する可能性があることは否定しないが、その事が現時点で証明されているとは思わない。)


但し、効用の累積和を最大化するという問題設定は効用関数に依存することにもなり、ナッシュ交渉解のように一意的に解が決まるかどうかは定かではない。 理論上は美しくもないし、何が正解なのかもわからない、あるいは正解の無い問題設定である可能性がある。 但し、そうであってもその為に努力することは可能なはずであるし、人類史を振り返ると少しずつその方向へと近づいてきているのではないかと筆者は考えている。 


最後にアダム・スミスの話に戻ると、国富論に出てくる有名な「見えざる手」という言葉はその前著「道徳感情論」にも出てくるがかなりニュアンスが異なる。その内容を岩田昌征教授が「スミス『国富論』の「見えざる手」と『道徳感情論』の「見えざる手」」という論説で分かりやすく紹介されているのを見つけたので該当部分を引用させて頂く。

 しかしながら、『道徳感情論』の「見えざる手」はかなり位相が異なる。関連個所(水田洋訳、下巻、岩波文庫、pp.23-24)を要約かつ引用しておこう。巨大な幻想的物欲を持つ大地主達がそのような幻想に突き動かされて、数千人の貧しい使用人の労働を用いて、広大な土地を耕作し、技術を改良し、そして、その全収穫を私物とする。これは、彼等の利己性と貪欲の成果である。しかし彼等の現実的必要は「胃の能力」によって天井があり、現幻想的物欲よりはるかに小さい。地主達の胃も貧民達の胃も大きさに大差がない。かくして、「かれらは、見えざる手に導かれて、大地がそのすべての住民のあいだで平等に分割されていたばあいに、なされただろうのとほぼ同一の、生活必需品の分配をおこなうのであり、こうして、それを意図することなく、それを知ることなしに、社会の利益をおしすすめ、種の増殖にたいする手段を提供するのである。神慮が大地を、少数の領主的な持主に分割したときに、それは、この分配において除外されていたように思われる人びとを、忘れたのでも見捨てたのでもない」(p. 24)。これでは、戦前の地主・小作関係どころか、江戸時代の領主・百姓関係さえ正当化する論理になる。市民社会の思想家アダム・スミスはどこにいったのであろうか。
http://chikyuza.net/n/archives/4832


アダム・スミスの時代であれば、「巨大な幻想的物欲を持つ」地主が独占的な地位を背景に貧しい使用人の労働を強いていたとしても、それが土地の耕作や技術の改良などの経済の推進に繋がるのであれば「胃の能力」の限界から、結局は「見えざる手」に導かれるように「大地がそのすべての住民のあいだで平等に分割されていたばあいに、なされただろうのとほぼ同一の、生活必需品の分配をおこな」われ、人々はその「見えざる手」の働きに満足できたかもしれない。

しかし現代は(そして少なくとも先進国では)もはや生活必需品だけが分配されれば満足という時代ではなくなっており、そして「巨大な幻想的物欲を持つ」富裕層の「胃の能力」も大幅に強化されている。

アダムスミスが考えた二つの「見えざる手」のうち、分配をつかさどるこちらの「見えざる手」については産業革命以降届かない範囲が確実に広がっているということであり、「巨大な幻想的物欲を持つ」富裕層に対して神ではなく国家による規制とその富の分配機能が無ければ資本主義経済は長期的かつ安定的な成長を成し遂げられないのではないだろうか? 国家は神ならぬ身ゆえにその関与に失敗があるとしても。


(追記)
市場も失敗するが国家も失敗することを理由に、どうせ両方失敗するなら市場のみに任せたほうがマシとの意見もありうるが、以下の2点から筆者は懐疑的である。


1点目は既に述べたとおり、市場に任せた場合よりもより望ましい状態(分配)が存在するのであれば国家はそれを追及すべきである。 国家による再分配は失敗することもあるし不公正な場合もあるかもしれないが、産業革命以降、全く国家が市場に介入しなかった場合に実現していたであろう状態と現在の状態を比較すれば、現在の状態のほうがより望ましい形に近いだろうと筆者は考えている。


2点目は市場の失敗は主に「巨大な幻想的物欲を持つ」富裕層が中心となって起こす場合が多いが、国家の失敗は(民主主義国家に於いては)民主主義的に選ばれた国家の代表が起こすものであり、同じ弊害があるとしても後者の方がまだ「自業自得」として納得できるし、国民としても学習することも可能だからである。
前者の失敗の影響が広く無関係な人々にまで降りかかるのは理不尽であるし、前者の失敗は自律的には学習機能を持っていない可能性もある(ギャンブルで破産した人がいくら居ても、ギャンブルで儲けようとする他の人には殆ど影響を与えないように、)