アベノミクスと雇用について

アベノミクスが期待外れな結果しか残せていないことについてはいまや多くの人々が同意する所となりつつあるが、その一方で今も「アベノミクスは成功したんだ!」と主張する人々が強調するのは雇用の改善である。しかしながらアベノミクス開始以降、雇用が改善しているのは事実であるが、失業率や求人倍率の推移をみるとアベノミクスの前後で明確なトレンドの違いは存在せず、リーマンショックからの自律回復が続いているだけとも取れる結果である。

これに対し、アベノミクス支持派の主張は、「失業率だけをみれば確かにアベノミクスの成果は見えないが、労働力人口や就業者数を見れば、アベノミクスが雇用を大きく改善したことは明らかであり、同じ失業率の改善でも民主党政権下とアベノミクス以降では中身が異なる」というものである。誰がこの主張を始めたのかはよくわからないが、ざっとネットで調べた感じでは山本博一氏の「「アベノミクスは失敗」に反論。どうみても雇用は改善している」という記事が2015年に出されており、又最近では田中秀臣氏なども同じような主張を持ち出して「よくあるアベノミクス(のリフレ政策)への反論になってない反論の例:「いまの経済回復はリーマンショック後の世界経済復活のせい」「民主党政権時代から自殺率も低下し失業率も低下していた(のでアベノミクスの成果ではない)」」とやっている。

この主張についてもう少し詳しく山本氏の説明を引用すると、

・民主党政権下でも失業率が低下しているが、労働力人口が減っていた。
・アベノミクス以降は労働力人口が増加しつつ失業率が改善している。
・民主政権下とアベノミクス以降では、失業率が改善していることは同じだが、その中身はまったく異なる。
・特筆すべきは「労働力人口がアベノミクス以降で上昇に転じた」こと。
・民主党政権下での失業率の低下は、ただ単に就職を諦めて就職活動を諦めた人が、失業者にカウントされなくなっただけである。

というものであり、民主党時代の失業率低下とアベノミクス以降の失業率低下は全く違うと断定しているが、このロジックには少なくとも二つの大きな問題がある。


まず事実だけを見れば、

  • 失業率はリーマンショック後からほぼ同じペースで改善しており、そこにアベノミクスの影響をみることはできない。
  • 一方、労働力人口や就業者数・雇用者数を見ると2012年後半頃から増加に転じている。

の2点については下図に示す通り、全く正しい。

しかしながら、この労働人口の増加がアベノミクスの影響だったかどうかについては「タイミングが近い」以上のことは示されておらず、リーマンショックからの自律回復の延長とどのように区別したのかは不明である。
この点について山本氏はコメントに応える形で

(2)労働力人口と就業者数が増えたのはリーマンショックからの自立回復の延長である。

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まず、(2)はありえませんね。民主党政権下で就業者数は増えていないのですから、回復すらしていません。
失業者が80万人減った分、労働力人口が80万人減っていますので、失業した人が再就職を諦め、非労働力人口になってしまったということになります。

それとも自立回復って、ショックの3年後に起こるものなのでしょうか?
そんな時限的な要素があるのか・・・初めて聞きました。


と否定しているが、聞いたことがなければ調べてみればよいわけで、2001年のITバブル崩壊からの回復過程における失業率と労働力人口の推移を同様にプロットしてみると以下の通りとなる。

この時も失業率は順調に低下を続ける一方、労働力人口は2〜3年程減少を続けた後に漸く増加に転じるというほぼ今回の経緯と同様の過程をたどっていることがわかる。山本氏の言うところの時限的な要素?はITバブルからの回復時にも存在したということになる。


なぜこのような事が起きるかについても少し考察してみると、ショック後に労働力人口が減少する理由の一つが失業した人が再就職を諦め、非労働力人口になること(就業意欲喪失効果)だと考えるなら、この流れに直接的に影響をもつのは求人倍率であるはずである。民主党政権だろうが自民党政権だろうが全体として考えれば求人倍率が低ければ再就職が難しく、求人倍率が高ければ再就職も容易となる。よってショック直後の求人倍率が大きく落ち込んだ時点では、再就職をあきらめる人が多くなるのは避けられないし、求人倍率が1に近づいてくるとその逆転が起きるのもごく自然な推移と考えられる。ITバブル崩壊後の推移を見ても求人倍率が0.8くらいになった時に労働力人口が減少から増加へと転じており、2012年頃に労働力人口が増加に転じたのも単にショック直後から順調に回復してきた求人倍率が一定の閾値を超えた為と考えることができるのではないか。

逆に言えば「2012年以降の労働力人口の増加はアベノミクスの成果だ」と主張する人々は仮にリーマンショック直後にアベノミクスを開始していれば求人倍率が低くても労働力人口は減らなかった(或いはショックがあっても求人倍率は下がらなかった?)はずだというような考えなのかもしれないが、現実問題としてアベノミクス開始は求人倍率のトレンドに大きな影響を与えたようには見えないので、このような主張はかなり無理があるだろう。


次にもう一つの問題点について指摘しておくと、労働力人口や就業者数が増加に転じたのは本当にアベノミクス以降だったのか?という点についても疑問が残る。

例えばこの点について高橋洋一氏は以下のような図を示して、「金融政策の効果を見るには就業者数をみればいい」「このデータほど、安倍政権と民主党政権の金融政策の差を如実に示すものはない。はっきりいって、民主党の完敗である。」(参照)とやっている。確かに高橋氏が加えたラインを見るとアベノミクスの開始前後で大きく状況が変化しているようにも見えるが、雇用のような指標に対してこの二つのラインが連続していないということについては強い違和感がある。

そこで、試しに2012年以降の就業者数、雇用者数をプロットすると以下の通りとなり、少なくとも高橋氏の示したような大きな変化がアベノミクスの開始と共に起こったようには見えない。アベノミクスの開始が株価や為替に与えた明らかな影響と比べると雇用に与えた影響と高橋氏が呼んでいるものはトレンドラインの引き方によって強調されたものにすぎないということだろう。この点については「ニュースの社会科学的な裏側」様でも以前に取り上げられており(アベノミクスで雇用が増えたと言えるのか?」)、就業者数が増加に転じたタイミングは2012年9月頃ではないかと指摘されている。


ちなみに雇用と直接関係があるかどうかはともかく、先進国経済が本格回復に転じた契機がこの頃にあったとすれば、それは2012年7月末頃ではないかと筆者は考えている。日本ではアベノミクスの成否ばかりが取り上げられる状況で既に忘れられている感があるが、当時の世界経済の最大の懸念は欧州の債務危機であり、スペイン、イタリアの10年国債の金利が2012年7月末頃にピークをつけたあたりが転機になった可能性が高い。

日本ではバブル崩壊後のイメージが強いからか政府がなんらかの政策を打つことなしに景気が回復するなんてありえないとでも思っている人々が結構いるようであるが、そもそも今回のショックは欧米が震源地であり、日本は欧米の経済減速とそれに伴う円高等でその余波を食らった形で、震源地の欧米が落ち着けば自律回復しても何の不思議も無い。日本が震源地であってその後始末が大変だったバブル崩壊とは全く背景が異なる。ちなみに為替についても、アベノミクスで大きく円安へと動いたことは事実ではあるが、トレンドとしては欧州債務危機が収束に向かい始めたころ(2012年8月頃)から円安トレンドとなっており、アベノミクスがトレンドを反転させたわけではない。


つまり雇用にしても世界経済にしても安倍政権は強い追い風を受けてスタートしていたという事であり、当初はアベノミクスが大きな成功を収めそうだという期待が高まったことは確かである。それが虚像であったとしても繰り返し喧伝されていた「景気は気から」という考えが正しかったのなら、この好ダッシュはアベノミクスの成功を自己実現的に後押ししたはずであるが、その後の推移を見るに残念ながら「気」だけでどうにかなるわけでもなかったという事だろう。


[追記]
田中秀臣氏は雇用の改善の他に自殺者数の減少もアベノミクスの成果(或いは金融緩和の成果)だと主張しているようであるが、氏も認めているように自殺者数と失業率の間には強い相関がある訳で、自殺者数の減少がアベノミクスの成果というのは失業率の減少がアベノミクスの成果であるという事を前提としており、後者が自律回復で説明できるのであれば、前者もその結果とみることができるため、結局は雇用の改善がアベノミクスの成果かどうかという問題に帰着するだろう。


[追記]
雇用についても細かく見るとアベノミクスの影響が無いわけではないのだろうが、それは失業率や労働力人口のトレンドに明らかにそれとわかる影響を残すほどではなかったということ。アベノミクスの成果を主張したいなら株価や為替などへの影響を語ればその事実自体にはあまり反論は無いはずなのに、あえて雇用とか自殺者数を取り上げるのは、株価や為替への影響が結局多くの人々の生活へ波及(トリクルダウン)してこないことが明らかとなり、開始当初と比べると「成果」としての価値が落ちてきているからだろう。