資本主義とトリクルダウン理論について

資本主義では金持ちが益々金持ちになっていくというのは今では多くの人が実感・同意するところだと思うが、「経済学の父」と呼ばれているアダム・スミスも既にそうなる可能性については気づいていたように思われる。しかしながらアダム・スミスはそれでもやはり資本主義は社会に利益をもたらすと考え、そのプロセスを著書「道徳感情論」の中で

巨大な幻想的物欲を持つ大地主達がそのような幻想に突き動かされて、数千人の貧しい使用人の労働を用いて、広大な土地を耕作し、技術を改良し、そして、その全収穫を私物とする。これは、彼等の利己性と貪欲の成果である。しかし彼等の現実的必要は「胃の能力」によって天井があり、幻想的物欲よりはるかに小さい。地主達の胃も貧民達の胃も大きさに大差がない。かくして、「かれらは、見えざる手に導かれて、大地がそのすべての住民のあいだで平等に分割されていたばあいに、なされただろうのとほぼ同一の、生活必需品の分配をおこなうのであり、こうして、それを意図することなく、それを知ることなしに、社会の利益をおしすすめ、種の増殖にたいする手段を提供するのである。神慮が大地を、少数の領主的な持主に分割したときに、それは、この分配において除外されていたように思われる人びとを、忘れたのでも見捨てたのでもない」

http://chikyuza.net/n/archives/4832

という、トリクルダウン論の元祖のようなロジックで説明している。


歴史をを振り返ると、確かに資本主義経済は大いに発展し、それに伴い多くの人々の生活は確実に向上してきた。 アダム・スミスが述べたとおり、人々が各々の「利己性と貪欲」に突き動かされて行動することが全体としての供給を増やした結果、格差は生じたもののみんなそれなりには豊かになったわけであり、分配ではなく供給が主たる問題であった経済ではこれで十分だったとも言える。 

しかしながら現在、先進国においてはむしろ供給過剰が問題になるような経済へと移行しており状況は大きく変わっている。 企業や富裕層がその「利己性と貪欲」に突き動かされて行動し、収益を上げ、供給能力を増やすことが必ずしも「それを意図することなく、それを知ることなしに、社会の利益をおしすすめ」ることにならなくなったわけである。


よって現代においては政府によって再分配がなされる必要があり、実際に殆どの国で一定の再分配がなされている訳であるが、そういった再分配に懐疑的な人もおり、そういった人たちはここで言うところの「大地主」に更に肩入れするような政策を推し進めようとする。 そしてそういう人たちが理論武装に使うのが本家?トリクルダウン論、つまり「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)する」という理論というわけである。


しかしながらアダム・スミスの時代とは異なり、「大地主」が無限の「胃の能力」を持ち、一方で「生活必需品」程度は低所得者層と言えどもそれなりに行きわたっている先進国において「大地主」がもっと「幻想的物欲」を満足させられるような状況を整えることが直ちに「それを意図することなく、それを知ることなしに、社会の利益をおしすすめ」ることに繋がることになるとは筆者には信じられない。 「大地主」がそのような「幻想的物欲」に突き動かされて経済を活性化させること自体は結構なことかもしれないが、やりたい放題やらせれば金融危機のような事を引き起こして経済全体を混乱させるし、彼らに分配を任せていたら取れるだけ持って行ってしまうわけで、とても「社会の利益をおしすすめる」ような事にはならないという事である。

これはブログでも過去何度も取り上げたテーマであり、最近のエントリーでは「柳井氏の「年収100万円」発言について − 日本の中流層はこれからも中流層でいられるのか?」も大きく見れば同じテーマに対する考察と言える。


最後にこの観点から前回のエントリーに引き続き再度リフレ政策にも触れておくと、リフレ政策は金融環境面及び為替面からの企業活動へのサポートという面が強く、(長期的なリスクを高めるといった点は置いておくと)リフレ政策によって短期的に一部企業の収益を押し上げることはそれほど難しくない。 但し、リフレ政策自体にはそこから先の富の分配に関する特別なメカニズムは含まれておらず、その部分は「トリクルダウン」任せになっている。 (また、更に問題なのは「トリクルダウン」無しでは一時的な効果が持続的な景気回復に繋がらないという点であるが、この辺りについては前回書いたので割愛) 

もちろんリフレ政策自体に再分配が含まれていなくてもアベノミクスには含まれている、ということであれば「リフレで押し上げた企業収益を、(トリクルダウンではなく)他の政策で分配して国民の利益に繋げるのだからそれで良いのだ」とする事は十分に可能であるが、リフレ派は日銀が正しい政策を行いリフレが浸透しさえすれば国民全体が豊かになるのだという主張を繰り広げてきたわけだし、アベノミクスはアベノミクスで「賃上げの要請」こそしてまわっているようだが、より強制力のある分配政策に手を付けようという気配は感じられない。

何度も書いているがITバブル崩壊からリーマンショックに至る米国経済の経緯を辿らない為の「何か」が日本のリフレ政策(或いはアベノミクス)に見当たらない以上、同じことを繰り返すのではないかという懸念は払しょくされない。 グリーンスパンが進めた金融緩和によって誘導された経済成長(バブル経済)ではその恩恵の殆どをごく一部の富裕層が独占した上に、破たん時の痛みは皆で被ることになり、結果として格差は急拡大した。 同じことを繰り返さない為の「何か」はバブル抑止の為の金融規制であったり再分配政策であったりするはずであるが、むしろ資産価格の急騰を成果として誇り、更なる企業サポート策を練っているような状況であり、筆者には好んでアメリカの二の舞になろうとしているようにしか見えないのである。 


[追記] 
尚、このエントリーは視点は若干違うが、内容的には2年程前に書いた「自由主義経済はどこまで正しいのか? - アダムスミスのもう一つの「見えざる手」」、「アダム・スミスの二つの「見えざる手」について (補足)」というエントリーの焼き直しになっている。 まあ筆者以外に覚えている人はいないと思うが、念のため。