クルーグマン教授は誰に謝るべきか?

クルーグマン教授がバブル崩壊以降の日銀の金融政策を痛烈に批判し続けてきた事は有名であり、「白川日銀総裁を銃殺すべき」とまで言ったとされているが、そのクルーグマン教授が「日銀に謝りたい」と言ったとかいう記事が注目を集めている。

クルーグマン教授“日本に謝りたい…” 教訓生かせぬEUのデフレ危機を嘆く
・クルーグマン教授「我々は今、日本に謝るべきだ」
 クルーグマン教授は、日本の「失われた20年」は、「反面教師として、先進国経済が進むべきではない道を示してきた」とNYTに寄せたコラムで述べている。そして、自身も日本が取った政策を批判してきた一人だと記している。しかし、「我々は今、日本に謝らなければならない」と心情を告白。批判そのものは間違ってはいなかったが、認識が甘かったとしている。

 それは、欧米が日本の教訓を全く生かすことなく、「起きるはずではなかった」数々の失敗を積み重ね、日本よりもさらに深刻な状態に陥ったからだという。「特に2008年以降の失態は、日本の失敗が霞むほどに大きなものだった」と嘆く。その例として、ドイツをはじめとするヨーロッパの緊縮政策や、「2010年以降のアメリカのインフラ支出の崩壊」を挙げている。また、欧州中央銀行がインフレを予防するために行った2011年の利上げは、「積極的に成長を破壊した」致命的なミスだったと指摘する。

 欧米が日本の教訓を生かせなかった理由については、「我々の社会に巣食う根深い格差のためだと思う」と述べている。
http://newsphere.jp/economy/20141031-5/

まあ、少し読めばわかるが(或いはクルーグマン教授の普段の言動を知っていれば読まなくてもおおよそ想像がつくが)クルーグマン教授が本当に自らの発言を悔い改めて「謝りたい」と言っているわけでもなんでもない。 欧米がリーマンショック後に「日本の失敗が霞むほど」酷い状況となったのは、欧米がクルーグマン教授が主張するような正しい政策を取らずに日本以上に「起きるはずではなかった」数々の失敗を積み重ねたからであり、そうした失敗をしてしまったのは「我々の社会に巣食う根深い格差のためだと思う」という従来からの主張を皮肉を交えて展開しているに過ぎない。


しかし、この主張は「クルーグマン教授の主張が正しい」という大前提を置けば成立するが、その前提を疑うなら全く違った見方も可能である。


クルーグマン教授が指摘するとおり、リーマンショック後の欧米の状況は「日本の失敗が霞むほど」酷いものとなった。 クルーグマン教授はそれを欧米の当局が日本以上の「起きるはずではなかった」数々の失敗を積み重ねたからだとしているが、少なくともリーマンショック直後の世間の評価はそれと真逆であり、特に欧米の金融当局は「日銀の失敗」を教訓にして積極的な金融緩和で「日本のようになるのを防いだ」として、一部の人々には賞賛され、日銀は今からでもこの「世界標準」の政策を見習うべきだ、と繰り返し主張されてきた。 しかしそういった声は欧米の状況が「日本の失敗が霞むほど」酷いものだと明らかになってくる頃には逆に欧米の当局が日本以上の数々の失敗をしたという声に取って代わられる事になった。


では、本当に「欧米が日本の教訓を全く生かすことなく、「起きるはずではなかった」数々の失敗を積み重ねた」のだろうか?


そもそもクルーグマン教授達が主張するような政策は机上の空論であり、そもそも「出来るはずのなかった」政策であった可能性がある。
例えば米国はクルーグマン教授が支持する民主党のオバマ政権の第一期で支持率も高かったしFRB議長もバーナンキであり、環境的にはクルーグマン教授が主張するような政策を行なうのに非常に適していたはずである。 なのにそれが実施できなかったのはクルーグマン教授の視点からすれば共和党が妨害したから、ということになるのかもしれないが、アメリカが一党独裁の国でない事など最初から明らかであり、その上で出来なかったのだとすれば、それは当局が「起きるはずではなかった」数々の失敗をしてしまったのではなく、むしろクルーグマン教授達が「出来るはずのなかった」政策を期待していたにすぎない、というほうが当てはまっているだろう。まして米国よりも制限がきつい欧州ではもっと「出来るはずのなかった」政策だったはずである。


また、クルーグマン教授達が日銀がとるべきだったと主張していた政策が期待していたほどの実効性がなかった、という理解も可能だろう。
リーマンショック後、欧米の当局は「日銀の失敗」を教訓として積極的な金融緩和を敢行した。 「バブル崩壊後の日本の失われた20年はひとえに日銀の緩和不足のせいだ」という教訓が正しければ、これで日本のようになるのは避けられるはずだった。 しかし結果は日本以上に酷い状況に陥ってしまうこととなった。 


この二つも見方は独立しているわけではない。 例えば「効果が出るまで緩和し続ければ絶対に効果があったはずだから、それが不十分になってしまったことが失敗だ」みたいな論調も見かけるが、これは前者と後者のミックスであり、「ある程度の規模の金融緩和なら実施可能であり、それで足りるはずだったが、実際にやってみると期待していたほどの効果が出なかった。しかしながら効果が出るまで無制限に緩和し続ける、みたいな政策は反対の声が強すぎて実施できなかった。失敗したのは反対した人間のせいだ。」みたいな話になっているのである。


筆者は欧米でリーマンショック後に取られた積極的な金融緩和と銀行への公的資金の注入といった政策が間違っていたとは思っていない。 それは日本が試行錯誤の末にたどりついた政策の一つであり、一定の効果がある事は日本でも実証済みであったが、それでも日本の事例から本当に学ぶべきであった教訓は「金融危機へと繋がる信用バブルはたとえかなりの代償を払ったとしても可能な限り早期に押さえ込むべき」というものだったはずだと筆者は考えている。 (特に、欧州のように金融・財政政策がとりうる手段が制限されている状況下では、尚更この教訓を学ぶべきであったはずである。)

しかし、甚だしきは「白川日銀総裁を銃殺すべき」とまで加熱した日銀批判は「日銀のような大きく間違った政策さえ採らなければたとえ金融危機が起こっても日本のようにはならない」というあやまった過信を欧米当局者が持つことを後押ししてしまったようにみえる。 ここでタイトル(「クルーグマン教授は誰に謝るべきか?」)に戻れば、このようなあやまった過信が欧米当局者の金融危機への事前対策の矛先を鈍らせたのだとすれば、日銀批判を展開したクルーグマン教授達が謝るべきは日本だけでなく、「日本の失敗が霞むほど」酷い状況に追いやられた欧米の国民も対象とすべきなのではないだろうか。