軽減税率導入で最終的に負担が増えるのは誰か?

軽減税率に関する議論が分かりにくい原因の一つは、その影響を論じるにあたり何と何を比較すべきか、という点で議論が錯綜している点にある。 ある人は軽減税率と現金給付を二者択一であるかのように論じるが、前回も書いた通り両者は別に二者択一でもなんでもないし、そもそも本人の収入だけでは生活が成り立たない人を軽減税率で救うことができないのは明白であり、軽減税率が採用されるとしてもそれがその他の社会保障と並立になるのは必須である。

そうであるにもかかわらず、これらが二者択一であるかのように主張される原因は、軽減税率導入に際して、導入しなかった場合のケースとの比較で必要となる財源の額が算出され、さかんに報道されている点にあると考えられる。 つまりこの財源を現金給付に使えばもっと低所得者支援になるはずだ、という論理である。


このような見方は必ずしも間違いとは言えないかもしれないが、消費税率は最終的にもっと高い水準まで引き上げざるを得ないと考える立場から見れば、やや近視眼的ではないかと感じる。 結局のところ、本当にそのような現金給付が必要なのであれば、軽減税率を採用してもしなくてもその財源が確保できるところまで税率(国民負担率)を上げていくしかないわけであり、現時点で低所得者支援や再分配機能が弱いという問題は、むしろ増税での財源確保を後押しするはずである。  

よって筆者の理解では、軽減税率の効果を論じるにあたりあえて定量的な比較をするとすれば、それは過渡的な状態ではなく、将来的に必要な税収を確保できるまで税率を上昇させたときに、軽減税率の有無でどのような負担の分担の差が生じるかいう点にあるはずということになる。


この説明では分かりにくいかもしれないので、2014年の所得階層別の消費内訳データをベースにざっくりと試算した結果を示してみる。

まず、今のまま軽減税率なしで消費税が15%となったケースで、各所得階層の人がどれだけの消費税を負担するか試算したのが以下の図1、仮に食料と光熱・水道費の税率を全て0パーセントにしたうえで上のケースと同じだけの税収を確保するために標準税率を更に上昇(約24%)させたケースが図2となる。

ここで、この両ケースにおける消費税の負担の差(年額)を取ると以下のようになり、同じ税収を確保するという前提において、軽減税率有のケースでは、所得の上位30%の負担が増える一方、下位60%は幅広く負担が減るという試算となった。

確かに本当に支援が必要な低所得者に負担減が集中していないことをもって、低所得者対策としての効果が薄いと言えなくもないが、そもそも両ケースは前提として同じだけの税収を確保しているわけであり、本当に支援が必要であればそこから支援を行えばいい話である。つまり両ケースは現金給付については同じ原資を確保した上で、軽減税率有のケースでは低〜中所得層の負担が減り、高所得層の負担が増える結果となっていることになる。 もちろん他の税制と同様に軽減税率が実際にどのように機能するかは制度の詳細設計次第であるが、少なくとも軽減税率という制度そのものが金持ち優遇でないことは明らかであろう。 


ちなみに前回のエントリーに対し、たとえばこれまで吉野家の店内で食事を食べていたのが、持ち帰りのみ軽減税率になると貧乏人は持ち帰りにせざる得ず、満足感が下がるから軽減税率は駄目だ、みたいなコメントをいただいたが、これも比較の対象がずれており、そもそも消費増税する以上、どこかで消費者としての満足感を下げることは避けられない。その上で軽減税率の有無でどうなるかを考える必要がある。

牛丼の例をとれば、軽減税率がなければ持ち帰りですら値上がりするわけで、相対的には軽減税率無しの方が満足感は低いだろう。もちろん軽減税率無しの場合は必要となる標準税率も低くなるので、食料以外の消費については相対的に満足感が高くなる。では食料の消費における満足感とその他の消費における満足感のどちらが大切だろうか?


以前書いたことの繰り返しになるが食料や光熱・水道費が軽減税率の対象となっている英国に暮らしている筆者の実感から言えば、軽減税率の一番の利点は生活者としての安心感と納税者としての納得感にあると思う。

筆者は幸い軽減税率が無い方が税負担が低くなる所得階層になんとか属しているのではないかと思うが、軽減税率をなくして標準税率を下げるべきとは全く感じない。 生活必需品が安いということが生活者に与える安心感は大きい。もし生活必需品にまで10%を超えるような消費税がかかるようになれば、たとえそれ以外の物品の税率が少しくらい下がったところで生活への安心感や税制への納得感は大きく下がるだろう。 

欧米で広く軽減税率が採用されている事について、反対派は「欧米で採用されているからと言って優れているとは限らない」と主張している。それはそれで一理あるところではあるが、少なくとも様々な問題があることがはっきりしているにも関わらず、現実に軽減税率がこれだけ長く続き、かつ殆どの国で(議論はあっても)実際の撤廃の動きが見られない事は軽視されすぎていると感じる。支持されるにはそれなりの理由があるわけである。


いずれにしろ、日本では推進側の与党ですら痛痒感がどうとかという、よくわからない議論を繰り出して混乱に輪をかけているようにみえるが、もっと本質的な議論として、最終的に税収をどれだけ確保する必要があり、その税収を確保するために、消費税分としては軽減税率無で何%、狭めの軽減税率で何%、広めの軽減税率で何%の消費税が必要です。その場合の消費者、販売者の負担や各種デメリットはこうなります。どれが良いですか? というようなはっきりした議論をしてほしいところだが、今の消費税アレルギーな世論を考えるとこれはこれでなかなか難しいのだろうか。


[追記]
ちなみにネットでちらほら見かける「軽減税率は消費行動の歪みを引き起こし、課税による資源配分の非効率を引き起こすから駄目だ」という意見は、経済学好き?の人々がよく口にする主張であるが、現実問題としてそれが本当に軽減税率の問題としてそれほど大きなものになるのかについては筆者は懐疑的である。

生活必需品である食料の税率を下げることが消費行動の歪みをいくばくか引き起こしたとしても、そこから得られる安心感や納得感を上回るほどの効用の低下を引き起こすという主張は軽減税率のある国で暮らす一生活者としては首をかしげざる得ないし、そもそもここで言う価格が需要に影響を与えることによる「課税による資源配分の非効率」を最小限にするためのルールと考えられているのが、需要の価格弾力性の低い財、つまり生活必需品に相対的に高い税率を課すことが望ましいとするラムゼイルールであり、ざっくり言えば逆進性万歳な話なわけで、税の逆進性を問題と考えるなら、消費行動の歪みはある程度許容する必要があるということになる。(そもそもラムゼイルールの原則に基づけば一律の間接税自体がルールに反していることになるわけで、軽減税率の導入にしてもそこから見れば50歩100歩だろう。)


[追記2]
但し、一律の税率のメリットとしての社会的コストの低さ(無駄な陳情の処理等も含め)は無視できないし、むしろこの一点においてやめるべきという意見はかなり説得力がある。 筆者は税率が高くなる過程では軽減税率の有無にかかわらずインボイスの導入は必要だと考えているので、その導入コストを軽減税率のコストと考えるのは抵抗があるが、いずれにせよ導入に際してはある程度の混乱と業者の負担増は避けられないであろうから、そのあたりで「やはり軽減税率はやるべきでなかった」という議論が出ることは間違いないだろう。 ただ、軽減税率のある社会で生活している筆者の実感から言ってもいったん根付いた後に、「では軽減税率をやめるか?」となるとかなりハードルが高くなることも間違いなく、つまりやるにしろやらないにしろ今こそが分岐点ということになる。

消費税増税時における低所得者対策としての軽減税率について

与党間で最終調整が進められているらしい軽減税率については世論調査では支持が多い一方、ネットでは圧倒的に反対意見が優勢な状況になっているように見える。

軽減税率は欧米では既に多くの国で採用されており、それが故にどのような弊害が存在するかについても様々な実例があるため、反対意見が出ること自体は当然であろうが、その中には勢い余って(?)本当にそうなのか疑問に思うような反対論もかなり目立つように感じる。その中でも目立つ意見の一つは「軽減税率は金持ち優遇」というものである。


以前にも書いた通り、筆者も軽減税率がベストな低所得者支援策だとは全く思わないが、ネットでよく見かける「消費税増税反対」かつ「軽減税率反対」な人々が主張するように「消費税は逆進的」であり、同時に「軽減税率は金持ち優遇」というのはさすがにつじつまが合わないと考えざる得ない。

もちろん仮にエンゲル係数が高所得者の方が高いということであればその限りではないが、そういった事実はないわけで、消費税増税が逆進的なのであれば軽減税率の導入は自ずとその逆進性を緩和するものになるはずである。 ちなみに「軽減税率は金持ち優遇」という根拠を単に軽減税率によって得られる減税額が金持ちの方が大きいという点だけに求めている人もいるようだが、それなら消費税増税による増税額は圧倒的に金持ちの方が多いわけで、「消費税は貧乏人優遇」となるはずであるが、もちろんそういう単純な話ではない。


たとえば以下のような軽減税率批判の一つの根拠となっている、「日本ではエンゲル係数が所得によって殆ど変らない」から低所得者層支援としての効果は低いという意見も違う角度から考えると、必ずしもそうとは言えなくなる。

かくも問題の多い軽減税率の数少ない根拠が、「低所得者層支援策になる」というものだ。これはエンゲルの法則――低所得者ほど支出に占める食費の割合(エンゲル係数)が高い、に基づいている。しかし、日本は所得階層毎のエンゲル係数に大きな差がないことが知られている。最も貧しい2割の家計のエンゲル係数は25%であるが、最も豊かな2割のエンゲル係数もまた20%である。

「軽減税率」は、実は低所得者支援策ではない! 飯田 泰之

「所得階層毎のエンゲル係数に大きな差はない=軽減税率は低所得者支援にならない」というのは確かにそれらしく見えるし、これを連呼している人々も多いようだが、実態を考えるとかなりあやしい話でもある。


下図は家計調査から作成した所得階級別の消費支出の内訳(上位10%と下位10%)である。 確かにエンゲル係数は上位10%で20%に対し、下位10%で26%とそれほど大きな差はないように見える。 


しかし、これは軽減税率が仮に適用された時に消費税の課税対象となる消費支出の割合が上位10%で80%に対し、下位10%で74%になるということを意味しているわけではない。 なぜなら今回軽減税率の検討対象となっている食料以外にも既に消費税が免除されている費目が存在するからであり、主なところでは家賃と医療があげられる。そして賃貸の負担の重さを考えると本当に支援が必要なのは所得下位と分類された人々の中でも特に賃貸生活をしている人々になるのではないだろうか。 

家計調査によると「家賃・地代を払っている人の割合」は上位10%では11.1%なのに対し、下位10%では40.8%となっている。 下位10%の平均住居費は18,902円となっているが、これを「家賃・地代を払っている人」の平均に単純に割り戻すと46,328円となる。ここから仮に食料に掛ける費用が同じで全て非課税とすると「下位10%+賃貸」の人々の総支出に対する消費税対象割合は平均でも32%となることになり、上位10%の人の73%を大きく下回ることになる(金額でいえば前者が約3.9万円なのに対し、後者は約35.3万円となりその差は約9倍になる)。 こういった世帯にとっては「エンゲル係数が25%しかない」のは、家賃をはじめとしたどうしても削れない支払いをすると、食費に掛けられるお金がそれだけしか残らないということを意味しているに過ぎないのではないだろうか。

さらに言えば、医療の費用も全ての人々が平均的に支出しているわけでなく、一部の人々に偏る傾向がある。いわゆる支援が必要な「低所得者」が誰なのかを決めるのは難しいが、低収入で賃貸に住み、家賃、光熱費、食費、医療費を払うと殆どなにも残らない、というような人々はこの支援が必要な「低所得者」になるだろう。このような人は仮に食費と光熱費を軽減税率の対象にすれば、いくら消費税率が上がろうと直接的な影響はかなり限定されるわけであり、消費税増税時における低所得者対策としては一定の機能を持つことは明らかである。


更にもう一点、筆者が英国で実感しているあまり語られない軽減税率のメリットについて書いておくと、それは本当に余裕がある人が自ずとより多く負担するメカニズムが(完璧ではないものの)存在する点にある。

仮に将来的に英国のように消費税が20%、軽減税率が0%になったとしてある食事が店内で食べれば600円、持ち帰りなら500円であった場合、値段に頓着しないは店内で食べる一方、値段にシビアな人は持ち帰りにすることになる。 一般に前者はお金に余裕がある人で後者は余裕がない人であろうから、後者に対しては食事が非課税で提供される一方、お金に余裕がある人には税を負担してもらえるようになるわけである。 又、これのもう一つのメリットは、お金に余裕がある人は収入に対する消費支出の割合が低いケースが多い為、消費税分の価格上昇が購入量の減少ではなく消費性向の高まりによってある程度カバーされる所にもある。

日本のように定年退職後の高齢者が増えてくると、誰が支援が必要かは所得だけでは計りにくくなる。しかしこのようなシステムを通せば、自ずと所得と関係なく本当に余裕がある人がより多く負担するという形に少しは近づけることになるわけである。


最後に以前書いたことの繰り返しになるが、筆者は低所得者支援策として考えた場合、軽減税率がそれほど有効なものとは考えていないし、諸外国の例を引くまでもなく様々な弊害もあるわけで、様々な観点から考えてメリットよりデメリットの方が大きいから採用しない、という選択肢も当然あると考えている。 但し、このメリットとデメリットを考える際には10%-8%の差しかない目先の状況だけにとらわれず、将来的に消費税がさらに上がった場合も想定して比較すべきである。

実際に日本で導入されようとしている軽減税率がどのようなものになるかはまだよくわからないし、上記の単純化した例であっても、"同じ税率であれば"軽減税率をなくして税収を確保した上で、本当に支援が必要な人々だけにピンポイントにお金を配った方が低所得者支援策としての効果が圧倒的に高いことは明白である。そしてより再分配効果を高めるには消費税は高い方が良いし、実際に再分配効果の高い国には消費税率が高い国が多い。

もちろん現金給付は軽減税率のあるなしに関わらず実施可能なわけであり、こういった再分配効果の高い国では両方を手厚くやっている例も多い。そして軽減税率有りで支援が必要な人には給付もきちんと行われるケースと、軽減税率無しで支援が必要な人への給付のみ行われるケースを比較した場合、給付を受ける人々の生活水準が同じとなるように調整されるとすれば、軽減税率が有るケースの方が、給付をもらわない人の間の累進性は高まると考えられる(但し、軽減税率の適用範囲を増やせば増やすほど同じレベルの給付を行うのに必要な消費税率が高くなるというデメリットはあるが、)。


又、もう一つ留意すべきは今後消費税が上がっていく中、一部の人にのみ手厚く現金給付を行なう事がどれだけ世論の支持を得られるかという点である。生活保護ですら風当たりが強い日本において一方で消費税を増税して他方で手厚い給付を一部の支援が必要な低所得者だけに行うというのはなかなか受け入れられにくいのではないだろうか。与党内では軽減税率の線引きをどこにするのかが大きな問題になっているようだがが、軽減税率抜きで今後消費税を上げていくケースではどこまでの人々にどれだけの支援が必要かという線引きも更に重要になってくるし、これももちろん簡単ではない。その前にまず現行水準の社会福祉を維持することすら少々の増税では難しい現状もある。 

そうであれば増税サイドでは軽減税率で低所得者層に一定の配慮をしつつ余裕がある人々には少しでも負担してもらい、一方給付サイドでもできる限りの手当をする、という二本立ての対策をとることは現実を考えた場合の消極的選択肢の一つとしてはそれほどおかしなものではないはずである。

20年ぶりの低失業率はアベノミクスの成果?

国内外で「アベノミクスは失敗した」との見方が多くみられるようになりつつあるなか、先日発表になった10月の完全失業率(季節調整値)は3.1%となり、1995年7月以来、約20年ぶりの低水準となった。 確かに雇用は堅調ではあるものの20年ぶりとなると、そこまで景気はいいかな?と首をかしげる人も多いのではないだろうか? 


筆者はその違和感の要因の一つは右肩上がりの医療・福祉産業の就業者数にあるのではないかと考えている。本エントリーではこの辺りを幾つかのデータを示しつつ考察してみる。


まず、失業率の推移であるが、確かにリーマンショック前の最低失業率 3.6%を0.5%下回っており、2%台にとどきそうな勢いである。 


この傾向は就業者数の推移にもあらわれており、労働力人口が減少する中、2012年中盤以降、少しずつではあるが増加傾向にある。


そしてその増加を牽引しているのが先に言及した医療・福祉産業、つまり介護関連の産業の就業者数である。 その就業者数は2002年の462万人から2015年5月の805万人まで実に340万人も増加している。 この規模感が分かるように失業者数とプロットしてみたのが以下のグラフとなるが、2002年1月の失業者数がちょうど340万人程度であり、労働人口が減少するなか医療・福祉だけは当時の失業者数とほぼ同じだけ就業者数を増やしているわけである。


また就業者数からこの医療・福祉産業の就業者数を除くと以下の通りとなり、こちらは2012年頃からほぼ横ばいとなっている。


医療・福祉産業の就業者数の推移から明らかなのは殆ど景気に左右されていないことで、アベノミクスの影響どころかリーマンショックの影響すらほとんど受けずに右肩上がりに増加してきている。 介護職は非常に求人倍率が高いことが知られており、2015年1月時点で、全職種の有効求人倍率が1.02倍のときに、介護職の有効求人倍率は全国平均で2.42倍、東京に限定すれば4.34倍と深刻な人手不足となっている(http://www.asahi.com/articles/ASH145DJQH14ULFA009.html)。つまりこの分野においては需要>>供給となっており、景気の動向と関係の深い非自発的失業者は限定的となっていると考える事ができるだろう。


よって循環的な景気と失業率の長期的な比較を考えるときには、このような趨勢的なトレンドを考慮にいれる必要があることになる。 厳密な検証は難しいが仮に医療・福祉産業の就業者数が2002年から全く変わっていなかったと考えて失業率を試算すると下図のようになり、医療・福祉産業の就業者増が失業率を押し下げている事が分かる。尚、試算結果の足元の失業率は3.5%であり、ほぼリーマンショック前の2007年頃の数値と同じとなる。当時もほぼ完全雇用水準と呼ばれており、現状もそれに近いということであればまずまず納得できるところではないだろうか? 


しかしながら医療・福祉産業の就業者増を牽引している介護関連の産業は平均所得が低く、その就業者増が失業率を押し下げているというのは、賃金の押し上げには必ずしもプラスにはならない可能性が高い点には留意が必要であろう。数字上は低失業率、高有効求人倍となっても介護職の就業者が潜在的な自発的失業者になるとすれば数字に見えるほどの労働市場のタイト感は高まらないということになるからである。


最後にタイトルの「20年ぶりの低失業率はアベノミクスの成果?」について書くとすると、失業率が20年ぶりのレベルまで下がった要因は、失業率の分母側で医療・福祉産業の就業者数が数百万人単位で増加したこと(特に労働参加率の低かった女性を中心に増加したこと)であり、アベノミクスとは直接関係ないというのが筆者の理解という事になる。 そもそも失業率をみても就業者数をみても安倍政権誕生の時期の前後で明らかなトレンドの変化は見て取れず、「アベノミクスがなかったらもっと高い失業率だったはずだ」的な主張は否定できないものの、その貢献度が誰の目にも明らかというレベルにいたっていないことは明らかであろう。

クルーグマンは変節したのか?

クルーグマンの日本論の再考についての議論が錯綜している一つの原因はクルーグマン自身が過去にも主張を微妙に変えてきていることに加え、日本の信者が勝手に妙な論(高橋氏のみょうちくりんな貨幣数量説とか)を付け加えたこと、そしてそれをまとめて批判する人々がいることであり、はっきり言ってかなりわかりにくい。

しかし今回はかなりクルーグマン自身が「 I find it useful to approach this subject by asking how I would change what I said in my 1998 paper on the liquidity trap.」と書いているように、かなり明示的に意見を修正しているので、そのあたりを筆者なりに整理しようとしたのが、前回のエントリーであったわけだが、やはりコメントを見るとわかりにくい話だったようである。 そこでいくつかのコメントを引く形で、もうすこしクルーグマンの日本論の修正について書いてみる。


まず、「クルーグマンはアベノミクスが失敗だとは言っていないし、異次元緩和を支持している」というような批判?については全くその通りとしか言いようがない。 

日本では今回のクルーグマンの日本論再考を異次元緩和と直結するものと捉えるむきも多いようだが、エントリーを見るかぎり「異次元緩和が失敗したから再考した」という話ではない。 クルーグマン自身も「not so much about the question of whether Abenomics is working / will work (unclear, don’t know) 」と断っている。 よって「異次元緩和が失敗したのは消費税増税のせいだ!」という意見もここでは関係ない。


記事中の記述を見る限りクルーグマンが再考するにいたったのは1998年以降の日本、つまりいわゆる「失われた20年」を観察した結果と見るほうが自然だろう。 その中でクルーグマンが考えを変えた根本的なポイントは

  • 失われた10年の真っ只中にあったデフレ下の日本について、当時は経済が潜在成長を大きく下回っており一時的に自然利子率がマイナスになっている状態であると仮定したが、その後の日本の推移を見れば、デフレ下にもかかわらず欧米よりも潜在成長率に近い成長を達成してきたと考えた方が自然であり、にもかかわらず成長率が低くインフレ率も上昇しないのは人口動態の影響で長期停滞に陥っており自然利子率が恒常的にマイナスの状態になってしまっている事に原因を求めることができるのではないか。

という点にある。そしてそこからの帰結としてクルーグマンが主張しリフレ派が繰り返し引用していた「流動性の罠下であっても中央銀行が「無責任になることを信頼できる形で約束することによりデフレを脱却する事ができる」という対策は、あくまで「自然利子率がマイナスになっているのは一時的な現象である」という前提に立ったものなので、自然利子率が恒常的にマイナスとなった状況下ではその限りではない、と繋げているわけである。 


ちなみにこの長期停滞の原因の最有力候補として人口動態をあげている事をもって「人口デフレ論を唱えた藻谷浩介氏が正しかった!」みたいな話をするのも少しおかしい。 

前回も書いたが、もともとクルーグマン本人は人口動態が経済を抑圧する事については繰り返し言及しており、デフレに陥った原因として人口動態を否定していたわけではなかった。たとえば2014年に「クルーグマンのかんたんな「長期停滞」克服法は機能するのか?」というエントリーで取り上げた "Demography and the Bicycle Effect” という記事(経済学101様による翻訳はこちら)では

経済学者アルヴィン・ハンセンが「長期停滞」(secular stagnation) の概念をはじめて提案したとき,彼は投資需要の低迷に人口増加の鈍化が果たす役割を強調した.

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現代の議論は,この強調点をふたたび取り上げるようになっている:日本の労働人口減少は,あの国が抱えるいろんな問題の重要な源泉になっているように見える.また,ヨーロッパとアメリカで人口増加が鈍化しているのは,ぼくらも日本と同様の型にはまりつつあることを示す重要な指標だ.

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おおむね完全雇用を達成するには,経済は十分な支出をしてその潜在力を使う必要がある.でも,支出の重要な要素である投資は,「加速効果」に影響を受ける:つまり,新規投資の需要を左右するのは経済の成長率であって,目下の産出水準じゃない.ということは,もし人口増加の鈍化によって成長が鈍れば,投資需要も減少する――そうなれば,経済は永続に近い不況に追い込まれてしまう.
http://econ101.jp/ポール・クルーグマン「なんで経済学者は人口成/)

と、人口動態が長期停滞を引き起こすメカニズムについて説明している。 但しこの時点ではクルーグマンはその解決策について

さて,これへの対処はかんたんなはずだとは言える.十分に金利を下げてやれば,人口増加が鈍化してても投資需要を維持できる.問題は,必要な実質金利は安全な資産ではマイナスになってしまうかもしれないってこと.すると,十分に金利を下げられるのは,十分なインフレがあるときにかぎられるってことになる――で,そうしようとなると,今度は物価安定に対するイデオロギー的なコミットメントにぶつかるハメになる.

と論じている。 この「かんたんなはず」の対処の前提はたとえ流動性の罠下であったとしても金融政策は有効であり、中央銀行が「物価安定に対するイデオロギー的なコミットメント」を無視すれば、つまり「無責任になることを信頼できる形で約束する」ことができれば期待インフレを高く(理想的には4%以上にまで)上昇させることができ、結果として実質金利を十分に下げる事ができる、というのが修正前の日本論だったわけである。 


一方、今回の修正点は「日本は自然利子率が恒常的にマイナスの状態になってしまっている可能性があり、その場合は量的緩和は効果が無いかもしれない("even a credible promise to be irresponsible might do nothing: if nobody believes that inflation will rise, it won’t.")ということであり、この点については藻谷氏が正しかったと言うより、「日本経済の主な問題はデフレではなく、人口動態だ」、「経済成長を回復する上で金融政策の効果はかなり限られている」、「日銀にデフレを解消する力はない」と論じた白川前日銀総裁が正しかったというほうが妥当であろう。 


では、クルーグマンは変節したと言えるのだろうか?

確かに、クルーグマンは日本については意見を修正しており、その修正点は「日本の不況の元凶は日銀のデフレ政策だ!やる気さえあれば金融政策でデフレ脱却は簡単だ!デフレさえ脱却すれば全てがよくなる!」と繰り返してきたリフレ派にとっては大打撃のはずであるが、それはそれとして修正後のクルーグマンの意見は「もっと量的緩和に加えて爆発的に財政出動すればよい」というものであり、方向性は変わっていない。これについてはロジック云々以前にクルーグマンが思想的にリベラル(あるいは欧州型社会民主主義)であることと無縁ではないと筆者は考えている。やや乱暴にいえば社会民主主義は労働者の貧困、失業などの問題は議会や政府の管理と介入により軽減・解決すべきというものであり、現状が好ましくないのであればそれは政府が介入すべき問題なのであり、この点ではクルーグマンは全くぶれていないとも言える。

ただし、今回の記事の最後では、クルーグマン自身が自らの提案(爆発的な財政出動)が実行に移される可能性は絶望的に低いと認めており、かなり弱気にも見える。そういった意味では「変節」ではなく「転進」あたりが妥当なところではないかというのが筆者の見方である。


[追記]
前回のエントリーのコメントには「リフレ派を批判するだけで、どうすれば日本経済が回復するのかという提案がない」というようなものもあったので、この点についても少し書いておく。

まず、そもそもの話として、筆者は日本の現状は潜在成長に非常に近い状況であると考えているので、景気後退時のように財政や金融で景気を「刺激」するような対策は基本必要ないと考えている。 もし実現すべき日本経済のモデルとしていまだにバブル崩壊前の姿を思い描いているならそんなものはまたバブルでもこないかぎりまず無理であり、理想のほうを修正する必要があるだろう。

一方でブログでも繰り返し書いてきたとおり、筆者も日本経済の主な問題はデフレではなく人口動態だと思っており、この対策についてはかなり前に「少子化の加速を少しでも食い止めるにはどうすればよいか?」というエントリーで考察した事があるが、現実問題として根本的な解決は難しいだろう。

よって当座の対処すべき問題はクルーグマンも指摘したように日本の現況が大幅な赤字財政に支えられいることで、かつそれが維持可能性が強く疑われるようなレベルであることであるが、これを解消するのはも緊縮財政しかないだろうというのが筆者の理解である。 もちろん「緊縮財政で景気が良くなる」なんてことは無理なので、緊縮財政を通じて財政再建を目指している間は多かれ少なかれ経済は悪化するわけであるが、他に方法は無いだろう。(筆者は上げ潮派的な「財政出動で財政再建」は99%無理だと思っている。もしそんなことが可能ならこれだけの累積債務が積みあがる事は無かったはずである。)

このように書くと、「クルーグマンは現在の日本の雇用が完全雇用に近づいてきている、と言っているけど、現状で完全雇用だとは言っていない。それなのに財政再建なんてとんでもない。失業者を見捨てるのか!」というコメントが来るのが予想できるが、そもそも完全雇用であっても失業者はゼロになるわけではなく、財政再建は常に失業者が存在する状態でやることになるわけであり、かなり控えめに見ても現在の日本の雇用が完全雇用に近づいてきているのであれば、それは財政再建のチャンスと言えるだろう。ちなみに失業者や貧困層について言えば筆者は失業保険をはじめとしたセーフティーネットを強化することには賛成であるが、一方で完全雇用をぎりぎりまで(あるいは行き過ぎて)追及した結果として財政危機や金融危機を招いてかえって大量の失業者を出すようなリスクをとるのは全く割にあわないと考えている。

よって筆者の提案をあえてまとめるとすればそれは「日本経済を回復させる」ためのものではなく、当面は「日本経済を悪化させる」ことを承知の上で緊縮財政を進めるべしというものになるだろう。
(以前に冗談で書いた非常にトリッキーな財政再建?の提案として、「あえてデフレを可能な限り維持したまま日銀に国債を買いすすめさせて金利負担を大幅に軽減する」というのは冗談ではなくなってきているが、これをやりすぎるとさすがに資金がじゃぶじゃぶになりすぎて何かの拍子に投機的な資金の動きがコントロールできなくなりそうなので、ここら辺りが限界だろう(と思うが、もう既に限界を超えてるかもしれない)。)

クルーグマンの日本論再考("Rethinking Japan")は何を再考したのか?

リーマンショック後に世界中で繰り広げられた金融緩和がかなり控えめに言っても期待していたほどの効果があげられなかったことについて、推進派、否定派双方からの議論が盛り上がっているようだが、その中、推進派(特に日本のリフレ派)が教祖のような扱いをしていたクルーグマンがあっさりと梯子を外して話題になっている。

このクルーグマンの日本論の再考("Rethinking Japan")について、その意味するところを少しでも小さく見せたい一派は、「クルーグマンはもっと高いインフレ率を主張しているだけだ!」とか、「単に財政政策ももっとやれと言っているだけだ!」と強弁したりもしているようであるが、普通に読めばそのように片づけられる話ではない。 そこで本エントリーではクルーグマンの日本論再考は何を再考したのかについて少しまとめてみた。


まず1998年の有名な論文にも示されたクルーグマンのオリジナルの日本論はざっくりまとめると以下のようなものであった。

  • 日本が潜在成長率を大きく下回り続けているのはデフレの罠に陥っており、経済が強く抑圧されているからである。
  • 一方、金融緩和によって実質ゼロ金利に到達している日本では、投機的動機に基づく貨幣需要が無限大となっており、通常の金融政策は効力を失っている(流動性の罠)。
  • しかしながら、たとえ流動性の罠下にあっても、日銀がインフレターゲット等のしかるべき政策を打ち出し、長期的なインフレ期待を高めれば、将来の実質金利が下がるのと同じ効果を持つ。だから金融緩和は景気刺激効果があるはずであり、それをしないのは日銀の過失である。
  • 通常の金融政策が効力を失っているなか、長期的なインフレ期待を高めるには将来的にインフレ率が上昇してもすぐには引き締めにまわらないこと、つまり「無責任になること」を中央銀行が信頼できる形で約束することが必要である。

ところが、その後の日本経済の推移をみると、

  • 確かに日本の経済成長率は全体で見れば低いものであったが、それはかなりの部分人口動態(労働人口の減少等)によるものであり、労働人口一人あたりの生産性の伸びは2000年以降でみれば米国より高く、過去25年を見ても米国とほぼ変わらず欧州よりも高かった。 
  • よってこの間の日本はデフレであったにもかかわらず米国よりも潜在成長に近い状況であったとみることは妥当である。

となっており、この現実をそのまま受け取るなら、日本はデフレの罠のせいで潜在成長率を大きく下回っているという前提こそがあやまりであり、日本はデフレであるにも関わらず欧米よりも潜在成長率に近い水準の成長を達成していた、と考え直す必要が出てくるということになる。 このような観察を経て日本の状況を再考した結果、クルーグマンが導き出した新たな日本論は

  • 日本の人口動態は非常に悪い状況にあり、それが原因で潜在成長率は低下し、さらに自然利子率は恒常的にマイナスになってしまっている可能性がある
  • 自然利子率が恒常的にマイナスの状態であればたとえ中央銀行が「無責任になることを信頼できる形で約束」したとしても金融政策ではデフレを脱却できない。

となる。これは概ね白川前日銀総裁らが主張していた内容そのものであり、つまりリフレ派がもっともごまかしたいポイントであろう。

日本がバブル崩壊後、長らくデフレ下の長期停滞に陥ったのは金融政策が悪かったのであり、つまりは日銀のデフレ政策が全ての元凶だったのだ、というのが日本のリフレ派の主張の根幹の一つである。そもそも対GDP比で見れば当時としては他に類を見ないほどマネタリーベースを増やしていた日銀が「デフレ政策」を取っていると批判された主因は結果としてデフレだったからであり、「インフレは貨幣現象なのだから金融政策で"簡単に"上げられる。にもかかわらずインフレ率を上げないのは日銀がそうしようとしないからであり、全て日銀のせいだ!」というのは、彼らのとっての自明の理であり、こんな簡単なことを理解できない奴は馬鹿かコミンテルンだ!と気炎を上げていたわけである。

ところが、今回クルーグマンが論じたように自然利子率が恒常的にマイナスの状況下では「無責任になることを信頼できる形で約束する」というようなことまでやったとしても金融政策ではデフレを脱却できない、ということになればこの(彼らにとっての)自明の理は全く自明ではなくなるわけである。 


では潜在成長率に近い状況を達成できている日本は現状のままでよいのか?という点についてはクルーグマンは否定的であり、問題は財政 ("fiscal")であると論じている。つまり

  • 潜在成長率を達成しているという事は経済学的には不況ではないという事となるが、この状況が継続的かつ大幅な財政赤字に支えられてきたこと、そしてその結果GDPに対する債務比率が上昇し続けてきたことは問題である。
  • 財政危機のリスクは誇張されすぎているとする(クルーグマンの)立場から見ても、GDPに対する債務比率が上昇し続ける状況はどこかの時点では解消されるべきと考える。
  • しかしながら金融政策によってインフレ率を押し上げることができないのであれば、累積赤字をインフレで解消することは難しいし、緊縮財政で財政再建を目指すとしてもその負の影響を(効果が低い)金融緩和で埋め合わせることができないという問題を抱えている。
  • よって財政再建のための残る手段は逆説的ではあるが、金融緩和とあわせて爆発的に財政出動してインフレ率を押し上げるしかない。(が、この提案が受け入れられる可能性はほぼないだろう。)

と述べている。要は財政再建の為には財政出動だ、という話でいわゆる「上げ潮派」の主張にかなり近いと言えるだろう。

なお、この最後の部分だけを取って「金融緩和に加えて財政出動をこれまで以上に大規模にやれと言っているだけだ!」と主張する人々もいるようだが、ここで真に注目すべきは、政策のゴールが大きく変わっていることである。 

そもそもリフレ派はバブル後の日本はデフレによって経済が強く抑圧された状態であったので、その重みさえ取り払えば全て良くなる!というのが売り文句だったわけだが、クルーグマンは日本はデフレ下であっても比較的良い状態を維持してきたし、現状では経済状況は大きな問題は無い(つまり強く抑圧なんかされていない)が、その状態を維持するために大幅な財政赤字を積み上げ続けてきているのが問題であり、財政再建するためにはやはりインフレ率を上げる必要があるのだ、と論じている。 

つまりたとえ政策が成功したとしてもリフレ派が夢見たデフレ後の素晴らしい世界などやってこず、多かれ少なかれ今と同程度の世界、但し財政が維持可能になっている、がやってくるにすぎないということになる。 まあこれはこれで幸せの青い鳥的とも言えるし、極楽浄土とはそんなものとも言えるかもしれないが、信者はこれで納得するのだろうか?


ちなみにこの日本がとるべき(そしてその後を他国もついていくべき)と主張している爆発的な財政出動の水準について、クルーグマンは「脱出速度(ロケットなどが地球の重力を振り切って宇宙に脱出する為に必要な地表における初速度)」にたとえているが、これはなかなか興味深い。
デフレ・長期停滞という地上から脱出するために飛び立ったロケットはもし脱出速度に達することができなければ再び地上へと舞い戻り、木端微塵になるかもしれない。なのに脱出速度に到達できるかどうかもわからないがとにかく飛び立て、というありがたいお話である。そんなリスクを取るくらいなら地に足をつけてできることをやっていけばいいのに、と考えるのは筆者だけだろうか? 



[追記1]
日本のリフレ派は様々な方面から異次元緩和の成功を喧伝していたのにあっさり梯子を外されご愁傷様であるが、そもそも日本のリフレ派がクルーグマンを教祖のように祀り上げていたこと自体が不思議と言えば不思議と言える。 

確かにクルーグマンは「日銀総裁を銃殺せよ」みたいなことを言ってたりしたので、「日銀が全ての元凶!」のリフレ派と親和性が高いように見える部分もあるが、もともと金融政策の効力をその信者達ほど過大に評価していたわけではなかったし、人口動態が日本経済に大きな影響を及ぼしているという事についても繰り返し言及している。 そういった意味では今回の日本論の修正は日本のリフレ派にとっては青天の霹靂でもクルーグマンにとってはそれほど大幅な修正というわけではなかったのかもしれない。そういう意味では以前にも書いたがバーナンキの方がよほどリフレ派的な考えの持ち主だと思うが、教祖として祀り上げるにはカリスマにかけていたのだろうか?


[追記2]
ちなみに「クルーグマンは異次元緩和は失敗だったと言っている」という解説もあるが、これはやや言い過ぎだろう。 
異次元緩和が目指したのはデフレで強く抑圧された経済を開放することだったはずだが、そもそもデフレではあったが大して抑圧されておらず、欧米よりもよほど潜在成長に近い状態にあったのだとすれば、成功したとしても得られるものはもともと小さかったはずであり、そういう意味では「期待外れではあったが一定の効果はでた」という事も可能だろう。但し、何度も書いているように金融緩和は拡大しているうちはなかなか弊害は表にでないが、いつか来る縮小のタイミングが危険なのでありもし大失敗に終わるとすれば、それがわかるのはもう少し先という事になる。

ファーストフード店の賃金水準はどのようにして決まるのか?

少し前の話となるが、「ファーストフード店の時給を1500円にしろ」デモを機に、Blogos等に幾つか面白い記事が紹介されていたが、ここでは少し違う視点でこの問題を考察してみたい。 それは「非熟練労働者の賃金水準はどのように決まるのか?」という視点である。


例えば「マクドナルドの「時給1500円」で日本は滅ぶ。」という記事では

■賃金は付加価値に対して支払われる。
このように考えると、時給1500円をほかの部分を何も変えずに実施したところでしわ寄せがどこかに行くだけでデメリットのほうが大きいことがわかる。時給1000円ならば雇えた人でも雇えなくなるからだ。

なぜこういうことが起きるのか。それは時給1000円の付加価値しか出せない人に1500円を払う事は企業にとってマイナスとなり、それをさけるために企業は別の手段を考えるからだ。繰り返すが解雇は規制出来ても雇用は強制できない。逆に言えば、1500円の時給をもらうにはそれに見合った仕事をすれば良い、という以外に回答は無い。

として、その人が作ることができる付加価値が賃金を左右しているというような主張がなされている。これは個人に対する回答としては間違えてはいないが、マクドナルドの店員の賃金が低いことの理由としてはややずれているように思われる。

マクドナルドの店員が平均して時給1000円程度の付加価値しか出せていないとしても、もちろん平均を大きく上回る利益を出している店舗も多数あるわけで、仮に最低賃金が時給1500円になったとしても、マクドナルドは採算性の悪い店舗を閉めて1500円でも採算が取れる店舗のみを継続することができる。そうなれば"結果として" 継続店の店員は時給1500円の付加価値が出せていることになるが、本質的な意味で言えばこの過程で店員の生産性が上昇しているわけではない。


なぜこのようなことが起こるかと言えばマクドナルドの店員に代表されるような非熟練労働者は企業全体の付加価値を考える場合、その生産性向上の主たる担い手ではないからである。

もっと乱暴に言ってしまえば、このような業種では非熟練労働者は単なるコストであって、会社全体の利益最大化を考える上層部(マネージメント層)にとって本当に重要なのは「会社全体での付加価値」の最大化であり、その時の「会社全体での付加価値÷総労働者数」がどれだけ低くなろうが関係ない。 薄利多売がビジネスモデルであれば、コストはできるだけ低く抑え、売値を下げて量を多く売るというのが「会社全体での付加価値」を最大化する戦略となるわけであり、実際に多くの企業がその戦略を取っている。

ちなみにこの場合、「会社全体での付加価値」が増加して高収益を上げたとしても、その恩恵にあずかれるのは基本的には上層部のみとなる。 そもそもこのビジネスモデルでは会社全体の付加価値の上昇と労働者一人あたりの付加価値の上昇がリンクしていない(場合によっては逆転している)のだから労働者のコストを上げてしまうとむしろ収益性が悪化する結果になりかねないし、そもそも付加価値の上昇に寄与していないのだから分配するインセンティブもないわけである。

このようなシナリオは別にファーストフード店に限った話ではなく、程度の違いはあっても機械化が進む製造業の分野でも生じているように見える。派遣で賄われている仕事は明らかにこの範疇に入るだろうし、正規であっても、本質的な企業の生産性の向上に寄与している人の割合はそう高いものではないのではないだろうか? 


で、最初に戻って、非熟練労働者の賃金はどのように決まるのだろうか?

これについては本ブログでも過去に何度か紹介したが、「賃金の鉄則」と呼ばれる賃金理論が参考になるだろう(「ブラック企業と賃金の鉄則」)。 ざっくり言えば、単純な資本主義制度のもとでは賃金は労働者の生活がどうにか維持できる程度の水準(最低生活賃金)に収斂していくという話である。 

しかし、歴史上この「鉄則(という名の予測)」は「鉄則」というほどには実現してこなかった。 その理由についてはリカードが以下のように予測している。

デヴィッド・リカードが気づいたように、新しい投資、技術、またはある他の要素が人口より速く増加する労働需要を引き起こしさえすれば、この予測は実現しないだろう。この場合、実質賃金と人口の双方ともが時間に伴い増加する。人口推移(国の工業化に伴う高い出生死亡率から低い出生死亡率への推移)は、賃金を最低生活賃金よりもはるかに高いものへ誘導し、発展した世界の大部分でこの原動力を変化させた。まだ急速に拡大する人口を持っている国でさえ、技能労働者の必要性が、他のものよりはるかに速く上昇する賃金を引き起こしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%83%E9%87%91%E3%81%AE%E9%89%84%E5%89%87

最近ではピケティの格差論が大きな話題を呼んだが、その一部はグローバル化や少子高齢化等の要因によって先進国において「新しい投資、技術、またはある他の要素が人口より速く増加する労働需要を引き起こす」ような状況を維持することが難しくなったことに原因を求めることができるだろう。


尚、上で紹介した「逆に言えば、1500円の時給をもらうにはそれに見合った仕事をすれば良い、という以外に回答は無い。」というのが個人単位では正しいというのは、この「技能労働者」になることが賃金を上昇させる有力な手段だからである。 たとえ労働市場全体としては需要が弱い状況であっても特定分野の技能労働者に対する労働需要がその供給を大きく上回る事はそれほど特殊な状況ではないし、更にいえば上で述べたような「会社全体での付加価値」の増加に寄与(或いは関与)できるようなポジションにつけるなら、成果に連動した高額の報酬を受け取る事もできる。

一方、いつの時代でも労働者のかなりの割合を占める「非熟練労働者」の賃金は「新しい投資、技術、またはある他の要素が人口より速く増加する労働需要を引き起こす」ような状況でない場合、市場に任せている限りは最低生活賃金へと収斂していくことになる。 これを押しとどめるためにはピケティが主張するように政府による所得の再分配の強化が必要なわけだが、日本の現況を見るとそれに期待するのはなかなか難しいようである。
 

異次元緩和と原油価格とインフレの関係について

黒田日銀総裁がようやく現実を認めて「2年で2%」目標を事実上撤回したわけだが、その理由として「エネルギー価格の下落」をあげた事に対し、リフレ派の高橋洋一氏がお得意の(?)データ分析を駆使して「原油価格の物価への影響はほとんど無視できる。2%が達成できなかったのは消費増税のせいだ」と批判している。(「2%インフレ目標未達」の批判は誤解で的外れ

内容としてはあまり目新しいものがあるわけではないが、その根拠としているデータ分析が"悪い意味で"なかなか興味深いので、これをネタにしつつ異次元緩和はいかにインフレをつくりだし、なぜまたデフレに戻ろうとしているのか、について考察してみる。


まず、「原油価格の物価への影響はほとんど無視できる」の根拠として高橋氏は最近4年間におけるインフレ率と輸入原油価格の推移のグラフを示し相関がゼロであるとしているが、わざと相関が出ないようにグラフを作っているのではないかと思えるほど、関係が見えづらい形にしている。

ためしに筆者も作ってみたが、物価を変化率(インフレ率)ではなく消費者物価指数で示し、原油価格が国内のガソリン価格等に反映されるのに時間差があることを考慮してとりあえず2ヶ月ずらしてプロットすると以下のようになり両者がはっきりと連動している事がわかる(消費者物価指数については消費税増税後は高橋氏のものと同様にインフレ率-2%相当で補正している)。
これを高橋氏同様に相関係数を取ってみると0.84となり、高橋氏の分析と逆に非常に高い相関があることを示唆している。要は連動はしているが時間差が存在するデータを時間差の補正をせずに変化率同士で比べると殆ど相関が無くなる場合があるというだけの話である。


ただし、言うまでもなく高い相関があるからと言って原油価格だけが日本のインフレ率を強力に左右しているというわけではないだろう。 例えばここでの原油価格は円建てとなっており、つまり為替の影響が多分に含まれている。そこで為替の変動のみを取り出して同様に消費者物価指数とプロットすると以下のようになり、これもまたそれなりに連動しているように見えるが、直近のトレンドだけは逆(円安/ディスインフレ)になっている。


よって以上の観察に解釈を当て嵌めるなら、

  • 異次元緩和以降のインフレ率の上昇は円安によってもたらされた(資源をはじめとした)輸入物価の上昇がけん引してきたが、直近では原油価格の暴落による輸入物価への影響が円安による影響を上回ったことからインフレ率の低下につながっている。

といった所になるのではないか。 
結局、これは白川前日銀総裁が論じていた「ゼロ金利制約に直面し、しかもバランスシート調整に晒されている経済主体が多い場合には、そうでない場合と比べて、金融緩和の効果は国内の主体を通じては発揮されにくくなり、むしろ、対外的なルート─資本流出や為替レートの下落─を通じて発揮されやすくなります」の通りのことが起こっているということだと筆者は理解している。


更に2点ほど考察を加えておくと高橋氏は原油価格がインフレに影響を与えない理由として

原油は全商品の一定割合を占めているので、その下落は一般物価であるインフレ率の低下につながるようにみえる。ところが、一般物価は全商品が対象なのだが、原油以外の商品では、原油価格が低下したことによって購買力が増す恩恵を受けることができ、その分価格が上向きになるのだ。その結果、原油価格の下落が直ちに一般物価の下落に直結するわけではなくなる。

という一部でおなじみのロジックを持ち出している。 高橋氏も「原油価格の下落が直ちに一般物価の下落に直結するわけではなくなる」と書いている通り、このロジックは「原油価格が低下したこと」によるインフレに対する影響と「購買力が増す恩恵を受けることができる」ことによるインフレに対する影響がきれいに相殺されるかどうかまでは論じておらず、「原油価格が大きく下がったのに一般物価が下がらない」という一見不思議な事象が本当に起こった時の説明としてはありかもしれないが、「原油価格が大きく下がっても一般物価は下がらない」という事を示しているわけではない。

一方、ロジックが示唆する影響の連鎖自体は非常に興味深い。これを上記の考察と合わせて考えると

  • 異次元緩和以降のインフレ率の上昇は円安によってもたらされた(資源をはじめとした)輸入物価の上昇がけん引してきたが、輸入物価の上昇は輸入品以外の商品では購買力を奪う為、その分価格が下向きになり、一般物価としてのインフレの上昇を抑制する。又、これは輸入品以外の商品、つまり国内産品の物価が下向きになることを意味しており、中小を中心とした輸出企業以外の企業へ負の影響を与え、輸出企業が高収益を上げる中、景気の足を引っ張ってきた。

というように現況を説明することもできるだろう。 

消費増税の影響も同様のロジックで説明できる。 消費税が増えた分だけ実質的な購買力が毀損するわけで、当然価格に下向きの影響を与えることになり、円安+消費増税は輸出企業以外にはダブルパンチとなりうる。 
尚、上述の観察では原油価格の動向(下落)とインフレ率には強い相関が見て取れたが、時系列データでの相関でもあり、これをもって消費税の影響は限定的だという話でもない。いずれにしろ上記の原油価格の下落も、消費税増税もインフレ率を下落させる圧力となるものであり、足元でインフレ率が低下傾向にあることもそれほど不思議というわけではないだろう。 


最後に高橋氏の分析なるものにも突っ込んでおく。

黒田日銀が2年たったので、その前の2年とあわせた4年間における、インフレ率(消費者物価指数総合の対前年同月比)の分析をしてみよう。それによれば、インフレ率は、マネタリーベース対前年同月比(3ヵ月ラグ)と消費増税(半年ラグ)でかなり説明できる。

インフレ率=−0.68+0.044*マネタリーベース対前年同月比(3ヵ月ラグ)−0.54*消費増税(半年ラグ)
相関係数0.94

やはり、消費増税の影響は大きかったと言わざるを得ない。もし消費増税が行われなかったら、2%インフレ目標は2015年度の早い段階で確実に達成できただろう。

どうやって計算しているのかよくわからない「消費増税(半年ラグ)」は置いておくとしても、「インフレ率=−0.68+0.044*マネタリーベース対前年同月比(3ヵ月ラグ)」という式が示しているのはインフレ率2%を達成するためにはマネタリーベースを60%も増やさないといけないという驚きの事実である。 「もし消費増税が行われなかったら、2%インフレ目標は2015年度の早い段階で確実に達成できただろう」と言っているが、「−0.54*消費増税(半年ラグ)」が無かったとしても、最もマネタリーベース対前年同月比が高かった2014年2月でも56%だったのだからこの計算式では2%インフレ目標には届かないことになる。 消費税増税が無ければ2014年はもっとマネタリーベースを増やしたはずだ!と無理やり主張する事もできるかもしれないが、さすがに無理筋だろう。

いずれにしろ、もしこの関係が続くのであればインフレ率を2%に抑制したままそれほど時間を書けずに日銀が政府総債務残高を買い切ってしまえることになり、万々歳であるが常識的に考えてありえない。 こういうのを平気で「相関係数0.94だ!」と出してくるところが高橋氏らしさというところだろうか。