貨幣数量「説」と貨幣数量「理論」について

貨幣数量説は英語では「Quantity Theory of Money」であり、この説を自説をサポートするものと考えている人々の一部(まあリフレ派ということだが)は「貨幣数量理論」と呼びたいようである。


高橋洋一教授も記事や著作の中で

かつて、日本でも、このような説明をした経済学者がいたが、多くの学者から、そのような単純な貨幣数量説(英語では貨幣数量「理論」quantity theory of moneyだが、なぜか日本語では「説」と訳す)を信じているのかと冷や水を浴びせられた。

http://www.j-cast.com/2010/05/27067416.html

中央銀行のバランスシートが拡大するということは、マネーベース(日銀は金融機関に供給するお金)が拡大しそれによる通貨発行益が増加することになる。その通貨発行益が財政当局を通じて世の中に流れるので、最終的には物価を押し上げる。


このため、古今東西、ベースマネーの上昇率と物価上昇率には強い相関関係があり、経済学では「貨幣数量理論」と言われている。もっとも、日本の大学では貨幣数量「説」といわれて「理論」でないと教えているが、長い目で見れば、因果関係が明らかな「理論」だ。


「バランスシートで考えれば、世界のしくみがわかる」

と、あたかも日本語に訳すときに何らかの裏があって「理論」が「説」になったというような言い方をされている。(この人はこういう言い回しが本当に多いな、、)


確かに「Theory」は日本語で「理論」と訳されるケースが多いが、今回のようなケースにおける本来の意味には以下の二つがある。 (下記はリチャード・ドーキンスの「進化の存在証明」の第一章「理論でしかない?」にあった「オックスフォード英語大辞典」からの抜粋を引用)


(意味1) 一団の事実や現象を説明あるいは報告するのに使われる考え方や主張の図式ないし体系。観察または実験によって裏づけないし確立され、既知の事実を説明できるものとして提示ないしは受容された仮説。 既知の、または観察された事柄についての一般法則、原理、あるいは原因としてもちだされる発言。


(意味2) 説明として提案された仮説。 転じて、単なる仮説、憶測、推測の意。 何かについての考え、あるいは考えのひとまとまり。 個人的な見解ないし意見。


この場合、(意味1)に該当するものであれば「理論」、(意味2)に該当するものであれば「(仮)説」と訳されるのがニュアンスとしては近いということになるだろう 。

但し「地動説 (heliocentric theory)」のように確固とした「理論」あるいは「事実」であっても「説」と訳されているものもあるので、翻訳自体は問題の本質ではないが、「Theory」が(意味1)なのか(意味2)なのかという違いは重要である。


私が上記の「Theory」の意味を引用した本(「進化の存在証明」)は文字通り「進化」を証明することを目的とした本であり、進化論は意味1に完全に合致し、数学的に厳密な意味での「証明」は出来ないとしても「膨大な量の証拠の蓄積があまりにも強力に支持しているので、それが「事実」の地位にあることを否定するのは衒学者以外のすべての人間にとって、とてつもなく馬鹿馬鹿しく思える」類の「Theory」であることを示している。


恐らく今日では(宗教的なバイアスを抜きにすれば)進化が起こった「事実」を否定する人は少ないと思われるが、ダーウィンが進化論を世に出したときには、その「Theory」は「仮説」に過ぎなかった。 その後、「仮説」が「事実」と認められるには膨大な証拠と検証が必要であったし、そしてその過程に於いて特定の証拠によって「仮説」が否定される可能性も十分にあった。


ひるがえって貨幣数量「Theory」を考えてみると、これは現時点では恐らく「仮説」の範疇を出ないものであり、その意味では(意味2)に近いものではないだろうか。そして今後この仮説が「地動説」になるか「天動説」になるかはまだ不明である。(注)


前回のエントリーでも取り上げたように経済学における「Theory」は証明が困難であることは事実であるが、「仮説」を十分な証拠の提示も無いまま明らかな「理論」或いは「事実」だとして、その「理論」を援用して新しい「理論」を作っていっても、最初の「仮説」の説明力を上回ることはできない(下回ることはできる)。 

又、何が「理論」、「事実」で、何が「仮説」なのかという事のコンセンサスがない状態ではそもそも議論が深まらない。にもかかわらず一部の論者があえてその部分を混同させて自説を引き立たせようとするのは残念なことであるし、間違った戦略でもあるだろう。


注)ちなみに高橋教授は「強い相関関係がある」と指摘されたベースマネーの上昇率と物価については過去数十年の日本のデータを見る限り、その様な「強い相関関係」が常に存在するわけではないことは明らかなように思われるし、まして「因果関係の明らかな「理論」」などないように見える。

もし数十年が期間として短すぎるというなら「理論」としては矛盾は無いかもしれないが、100年単位でみれば正しい(かもしれない)「理論」が経済政策の検討にどれだけの意味があるだろうか? 又、経済の実態がこれだけ大きく早く変わる現代において長期の「理論」をどうやって検証できるというのだろうか?