景気が良くなったのはアベノミクスやデフレ脱却のおかげなのか?

以前にも書いたように筆者は英国在住の為、日本の景気回復を肌で感じることはできないが、色々な記事や弊ブログへの書き込み等を見るに、どうやら日本でも昨年あたりからようやく景気回復が実感できるようになったようである。

そして予想されたことではあるが、リフレ派を含むアベノミクス応援団の人々にとっては、この景気の回復はひとえにアベノミクスのおかげであるらしい。つまり

黒田日銀の異次元緩和 → 為替切り下げ(円安)・インフレ率の上昇(デフレ脱却) → 失業率・景況感の改善

というストーリーは疑う余地の無い自明の理であり、全てがリフレ派の予想通りだった、というわけである。

まあ確かにリフレ派の人々が日本の現状を見て、「このストーリーが全てであり、諸悪の根源はデフレであり、やはりこれまでの日銀の金融政策は間違っていたのだ!」と言いたい気持ちはわからなくも無いが、筆者から見ればこのストーリーはそれほど自明とは思われない。 これは筆者がリフレ政策に批判的であったというバイアスも入っているだろうが、それを置いておいても筆者が住んでいる英国の現状との比較を考えると、上記のストーリーが自明とはとても思えないのである。


世界金融危の震源地の一つとして長らく不況に苦しんできた英国は、2013年に入ってようやくはっきりした回復トレンドに乗ることができたわけだが、2012年後半から英国で起きたことを上記と同じような枠組みで書けば

量的緩和の打ち止め → 為替上昇・インフレ率下落 → 失業率・景況感の改善

となり、最後の「失業率・景況感の改善」以外は日本と真逆といっていい経緯を辿ったことになる。

又、更にいえば日本の場合、世界金融危機の余波を受けて失業率は2009年7月には5.5%まで上昇したが、第二次安倍内閣誕生時には既に4.3%程度にまで回復しており、その後にアベノミクスによって失業率の更なる回復が達成されたのだとしてもそれは0.7%(4.3%-3.6%)の範囲内の話になる。 しかも失業率の回復トレンドは異次元緩和前と後で顕著な差は見られないし、そのトレンドも2003年から2007年頃に見られた失業率回復トレンドと比較しても殆ど差は見られない。 一方、英国の場合は明らかなトレンドの変化が2013年に見られる(参照1)。


よって日本や英国を含む多くの先進国で2013年に明らかな景気回復基調が見られたのは、それらの国でインフレ率が上がった・下がったみたいな細かな差を塗りつぶすほどの世界経済全体の回復基調がその背景にあったと考えるほうが自然だというのが筆者の考えである。 尚、この世界経済全体の回復基調について要因を一つ挙げるとすれば、ギリシャ問題に代表されるユーロ圏の金融問題がなんとか一息つき、ユーロ圏の経済が底を打ったことになるだろう。 (例えばユーロ圏の失業率の推移(参照)を見ても金融危機後、実に5%近く上昇を続けてきた失業率が2013年の初めに底を打っていることがわかる。)


又、この景気回復局面において日本でインフレ率の上昇、英米でインフレ率の下落が起きたのはある意味必然であるとも言える。 今回の金融危機の震源地ともいえる欧米では積極的な金融緩和を行なったことも重なって危機後その通貨価値は一時的に大きく下落し、一方避難通貨となった日本円は大幅な通貨高となった。 つまりエネルギーや食糧品等の輸入物価を通じ、為替安になった国にはインフレ圧力が、為替高になった国にはディスインフレ圧力がかかることになったわけである。

そして時間は掛かっても大本の問題があらかた片付けば、この為替の大きな変動もある程度は巻き戻される。 2012年末頃から為替が円安に戻り始めたのは、日銀の金融政策の転換の影響もあったと思われるが、日本以外で避難通貨となったカナダドルや豪ドルの推移を見てもほぼ同時期に為替トレンドが反転しており、この巻き戻しの影響もあったと考えることができる。 よって世界経済の回復局面では危機直後と逆の為替の変動が生じ、逆のインフレ・ディスインフレ圧力が震源地の国と余波を食らった国に生じ、震源地の国はディスインフレ圧力下で景気回復を迎え、余波を食らった国はインフレ圧力下で景気回復を迎えるということになったわけである。 


さて、以上は大雑把に言えば「2013年の景気回復の主因はリフレ派が主張するように異次元緩和によってインフレ率が上昇しデフレから脱却したことにあるわけじゃなく、単に世界経済全体の好転のおかげじゃないの?」という話であるが、筆者も異次元緩和が何の影響も無かったと思っているわけではなく、特に株価と為替とインフレ率に対してはかなりの影響(良くも悪くも)があっただろうと考えている。


筆者は今回の不況について言えば日本は基本的には欧米の金融危機の余波を受けただけであり、それらの問題が片付いて世界経済が回復すればリフレ政策など無くても為替は概ね元の水準に戻っていくし、失業率もショック前の水準に回復していき、インフレ率も2%までは行かなくともプラスの水準へと戻っていくと考えていた。しかし、ようやく訪れたこの巻き戻しトレンドに異次元緩和をぶつけたことによって為替やインフレ率等が短期間のうちにやや過剰に巻き戻され、結果としてその影響が実質賃金の下落として現れているというのが筆者の理解である。

日本の失業率は現在3.6%まで下がっており、数字だけ見れば2007年に記録した水準にまで回復している。以前にも書いたとおり、筆者は日本経済は2007年頃にはほぼ完全雇用に達していたと考えており、つまりこの3.6%という水準はいわゆる自然失業率に近いと考えている。 そして通常であれば完全雇用に近づけば実質賃金には上昇圧力がかかってもおかしくは無いはずだが、急激な為替安&インフレ圧力の上昇により現実には更なる下落基調にあるわけである。


尚、この現況をもって「デフレで実質賃金が高まったことが余剰労働力(失業)を生み出したのであり、その実質賃金を下げて失業を減らすことがリフレ政策の肝だ。 だから実質賃金が低下していることもリフレ政策の成果なのだ!」という主張もあるようだが、筆者にはいろいろとずれているように感じられる。

まず「デフレが諸悪の根源」と信じている人々は失業を生み出したのもデフレだと考えている人が多いようだが、事実だけを見れば日本でも欧米でも膨大な失業を生み出したのはデフレではなく金融危機であり、その原因となったバブルはマイルドインフレ下で拡大している。 つまり仮に実質賃金が高すぎることが失業の原因だとしても、その歪みはデフレ下ではなくマイルドインフレ下のバブル期に拡大したのであり、この文脈であえてデフレの問題点について語るなら、デフレ下では名目賃金の下方硬直性によって不況時でも実質賃金の調整(下落)が進み難いから問題なのだ、ということになる。 


ここで今回の世界不況を振り返ってみると、震源地となった欧米ではそれに先立ってマイルドインフレ下でバブル経済が拡大しており、実質賃金の調整が必要な状況であったという事はできるかもしれない。 しかしリーマンショック前の日本は失業率から見れば完全雇用に近い状態ではあったがバブルが発生していた訳ではなかった。 日本は91年のバブル崩壊以降、実質賃金の調整を主に名目賃金の下落等を通じて進め、その結果として低インフレ下での完全雇用を概ね達成していたわけである。

よって欧米の金融危機の余波を受けた今回の不況から回復する為に、只でさえ危機前より下がっている実質賃金を更に下げなければならない、なんてことを当然のことのように主張する人々には全く賛同できない。

念のために触れておくと、いわゆるブラックとされるような企業を中心に人手不足や(正社員化等の)待遇改善の動きがあることもひとえにデフレ脱却の効果だと主張する人もいるようだが、普通に考えれば完全雇用に近づけばおのずと生じる事象であり、別にインフレ率と直接関係がある話とも思えない。 本来なら完全雇用に近づいていくときにはこういった現象と平行して実質賃金全体の底上げが生じてもおかしくないわけだが、異次元緩和による人為的、かつ急激な変化(主に為替安とそれに伴うインフレ圧力)に名目賃金がついていけず、完全雇用に近づいているのに実質賃金ががんがん切り下げられるという状況に陥ってしまっているわけである。


ちなみにこれによって直接的に利益を得ているのはいわゆる勝ち組企業だろう。 人々の実感的な部分はともかく、企業の決算上は2011年度には既に多くの企業が過去最高益を挙げるまでに回復していたわけだが、2012、2013年度も多くの企業が引き続き高水準の収益を上げ続けており、そこから更に実質賃金が切り下げられているわけである。 一部企業は少しはその収益を労働者にも回しているようだが、少なくとも全体での実質賃金の低下を下支えするには全く足りないレベルのようである。


ただ、実質賃金が切り下げられることはもちろん労働者にとってありがたい話ではないが、みんながほんの少し貧しくなるだけで直ちに破滅的な事態を引き起こすわけではない。 むしろ筆者が懸念するのはその先の話である。 

黒田日銀は、現在の失業率を「構造失業率に近づいているか、ほぼ等しい」と認識しながらも、インフレ率が目標に届いていないことから金融緩和は継続する方針のようだが、それを続けた場合、二つのリスクを更に高める可能性があるように筆者には感じられる。

一つは低インフレ下での金融緩和が長期にわたって続くことによるバブルの再発リスクである。これについてはリフレ政策の最大のリスクの一つとして何度も触れてきているので詳細は触れないが、要は「いつか来た道」である。そしてもう一つは完全雇用に近い状態から景気刺激を続けることにより賃金への上昇圧力が一気に顕在化し、それが大きなインフレ圧力となってインフレ率を急上昇させ、結果として長期金利を押し上げて国債危機を誘発するリスクである。 

通常であれば好況期に完全雇用に近づいていけば実質賃金がじわじわと上昇しそのトレンドにネガティブフィードバックがかかるのが市場のメカニズムなわけだが、今は金融政策によって実質賃金を切り下げながら完全雇用水準に突入するという非常に不自然な状況下にある。 この不自然な状況が解消される過程がどのようなものになるかは予測が非常に困難であり、時間を掛けて解消されれば大きな問題は起きないかもしれないが、もし非線形的な事態が発生すれば、膨大な債務残高を抱えた日本にとっては最後の一押しになる可能性もあるだろう。


もちろん、こういった懸念はそもそも杞憂かもしれないし、或いは杞憂でなかったとしても世界経済全体の回復基調によって吹き飛んでしまう程度のものかもしれない。ただ、保守的な筆者としてはやはりこういったリスクが顕在化した場合に備えておかないととても安心できないわけであるが、なかなか有効な備えがない事も又事実なのが難しいところと言える、、


* ちなみにリフレ派の一部の人々は2007年の経済環境が彼らのいう所の日銀のデフレ政策下で達成されたことから、「日本の本当の自然失業率はもっと低く、デフレ政策が失業率を高止まりさせていたのだ!!」と主張したいようだが、そういう人々は黒田日銀総裁が4月の記者会見で現在の失業率を「構造失業率に近づいているか、ほぼ等しい」と述べたことについてはどう受け止めているのだろうか?