長期金利の上昇はいかにしてアベノミクスを失速させるのか、

前回のエントリーで紹介したリチャード・クー氏の論説と被るが、現在注目を集めている長期金利の上昇がこれからどんどん進んでいった場合、どのような悪影響をアベノミクスに与えうるかについて少し考察しておく。


まず最初にはっきりさせておきたいのは、現時点で問題になっているのは「実体経済の回復とその結果としてのインフレ率の上昇に後押しされて生じる長期金利の上昇」ではなく、「実体経済の回復が進んでいない段階で金融緩和によって誘導された期待インフレ率の上昇に後押しされて生じる長期金利の上昇」だということである。


金融緩和によって誘導された期待インフレ率の上昇が実体経済を回復させる前に長期金利を上昇させるとすれば、その時点における長期金利の上昇は経済、特に銀行と政府の財政にマイナスの影響をもたらすケースが想定される。  

4月に発表された金融システムレポートによれば国内金利が長短一律2%上昇すると想定した場合、2013 年度の債券時価損失の発生を受けて、国際統一基準行の自己資本比率は相応に低下するため貸出を抑制し、2013 年度の銀行貸出残高の伸びはベースライン対比1.0%pt 下振れし、名目GDP成長率は、貸出の抑制や貸出金利の上昇などを通じた影響から、ベースラインから最大1.7%pt 下振れると試算されている。

また、政府の財政への影響も深刻なものとなりうる。 実体経済が回復する前に現実のインフレ率(GDPデフレータ)が上昇したりはしないわけで、只でさえ世界で断トツの水準まで積み上げてきてしまった累積債務は国債金利が上昇した分だけ更に増加が加速する一方で、GDPの増加はそれを下回り、結果として更に累積債務の対GDP比が上昇することになりかねない。


ちなみにクルーグマンらは「金融緩和によって実質金利が下がるのなら日本の負債はむしろより維持可能になるはずだ」と指摘している。 その簡単な説明をニック・ロウ氏のエントリーから引用すると次のようなものになるのだろうが、これはミスリーディングである。(参照 - 以下の翻訳は道草様より)。

日本が政府債務に対して名目利子率 i だけ支払わなければならず、日本の名目GDPが n の率で成長しているとすると、債務名目GDP比を常に一定に保つ、つまり持続性のあるものにするためには、日本は名目GDPの (i-n)x(Debt/NGDP) だけの財政黒字を必要とする。

好み次第で、この式はi と n の双方からインフレ率を差し引くことによって(r-g)x(Debt/NGDP)と書き直すことが出来る。この場合、rは実質利子率で、gはGDPの実質成長率だ。二つの式は全く同じものだ。

経済回復はnの上昇を意味する。インフレ率の上昇と実質成長の両方が原因だけれど、両者の割合は分からない。理論・実証の双方から、経済回復はiの上昇もまた意味することが分かっている。

経済回復がnよりもiを上昇させる、つまり(i-n)が上昇する場合、日本は債務の利払いを行うことが難しくなる。でも、nがiより上昇する、つまり(i-n)が減少するのであれば、日本は債務の利払いをしやすくなる。

これは経済回復がrをgよりも上昇させる、つまり(r-g)が上昇する場合、日本は債務の利払いを行うことが難しくなると言い換えることもできる。でもgがrよりも上昇する、つまり(r-g)が減少するのであれば、日本は債務の利払いをしやするくなるということでもある。

ここでいう i (名目利子率) が「期待インフレ率+実質利子率」である一方で、n(名目成長率)は「実インフレ率(GDPデフレータ)+実質成長率」であることを考えると、 (i - n ) は「実質利子率 - 実質成長率」ではなく 「(実質利子率 - 実質成長率)+(期待インフレ率 - 実インフレ率(GDPデフレータ))」となる。 つまり(期待インフレ率 - 実インフレ率(GDPデフレータ))分だけ財政維持へのハードルが上がることになるわけだが、「期待」先行のリフレ政策ではこれは常にプラスになると予想される。 

長期金利の上昇が財政に与える影響について議論すると「名目と実質の区別がついていない」みたいな批判が集まることが多いが、筆者からみれば、そういった批判は「期待インフレ率と実インフレ率(GDPデフレータ)の区別がついていない」ように見える。 期待と現実の違いはもちろん、例えば円安による輸入物価の上昇はインフレ率に対しては上昇圧力になるが、GDPデフレータに対しては抑制圧力になること等も考慮に入れるべきであろう。


「期待インフレ率>実インフレ率(実GDPデフレータ)」という状況は過渡期的なものであり、中長期的にみれば両者の差は縮まってくるから無視しても良い、という見方もありうるが、問題はどちらに収束していくのかという事である。


そもそも流動性の罠下にあった日本で異次元緩和が期待インフレ率を上昇させることができたのは「期待インフレ率が上昇すれば景気や雇用が回復し、そうなればやがてはインフレ率も上昇していくだろう」という期待に働きかけることができた点が大きいのではないかと思うが、最も肝心な「期待インフレ率の上昇 → 実体経済における景気や雇用の回復」の波及ルートはどれだけ機能しているのか不明であり、景気や雇用の回復に裏打ちされた実インフレ率の上昇は今のところ全く起こっていない(というか実インフレ率の上昇自体が全くといっていい程起こっていない)。


そういった環境下で「期待インフレ率の上昇→長期金利の上昇」だけが先行して現実化し、それが住宅ローンの金利上昇や国債コストの増大として経済への重石となってくれば、「期待インフレ率が上昇すれば景気や雇用が回復し、そうなればインフレ率も上昇していくだろう」という期待自体が弱まり、結果として「量的緩和→期待インフレ率の上昇」という期待が弱まってくることになりかねない。


そうなるとどうなるか? 「期待」で上がったものは「失望」でもとに戻る。 但し、この場合は大きく膨らんだバランスシートと日銀の能力への不信、そして長期金利上昇への恐怖感という重石を背負っての帰還となる。


やや違うシナリオも考えられる。 若干円高へと戻ったとしてもリーマンショック後の円高時の水準までは戻らず、輸出物価の上昇によるインフレ圧力は残り続けるケースである。 この場合は徐々にインフレ率が上昇していく可能性も考えられるが、輸入物価の上昇はGDPデフレータに対しては押し下げ圧力となりうるし、そもそもそのようなコストプッシュインフレが経済にとってプラスになるかどうかは怪しいと言わざる得ない。  結局の所こうやって引き起こされたインフレ、特にコモデティ価格の上昇、は国内の景気・雇用に直結する国内産品・サービスに対する消費を抑圧しかねないということになる。  (もっと違うシナリオを言えば、ばたばたやっている内にファンドの集中攻撃を受けて長期金利の上昇がコントロールしきれなくなり、急激な財政再建を余儀なくされるというものもある。)


いずれにしろ、長期金利が実体経済(実インフレ)に先行して大きく上昇し始めることはアベノミクス、或いはリフレ政策、の失速への道のりになる可能性が高いという事になるというのが筆者の理解である。


更に付け加えるとリチャード・クー氏も書いていたように、これは現状の長期金利水準でこういった事が起こっているという話ではない。 先日から何度も書いているが筆者も現在の長期金利の水準自体は直ちに大きな問題が生じる水準とは思っていないが、一方で長期金利の乱高下に見舞われた後の政府・日銀の言動は、リチャード・クー氏の懸念、つまり「長期金利が上昇し始めるとそれを抑えるべく財政再建を進めねばならないという意見が政府・日銀内で高まるのではないか」という懸念を証明したように見える。  

黒田総裁は5月26日の講演で「金利上昇に対する耐性を点検することが一つの重要な課題だ」、「財政の持続性に対する懸念を生じさせないためにも、財政構造改革に向けた取り組みを着実に」と語り、日銀OBから「やっと日銀総裁らしくなってきた」、「2%の物価上昇なら、長期金利は3%ぐらい上がってもおかしくない。国債に評価損が出て銀行が危うくなる事態があり得るから、白川前総裁は慎重だった。黒田さんも総裁になり立場がわかったと思います」(参照)と歓迎?されているようだが、こういった姿勢はリフレ「だけ」を考えた場合にはマイナスであろう。

筆者としてはそれ自体は悪い話でもないと思うが、「期待インフレ率の上昇によって長期金利が上昇すれば財政再建圧力が高まる」という期待は「期待インフレ率が上昇すれば景気や雇用が回復する」という期待とぶつかるものであり、やはりアベノミクス失速への道のりとなるだろう。


もちろん黒田日銀としては長期金利のことなど気に介さずに粛々と緩和を続けていく、或いは緩和を更に倍プッシュしていく、という手段も考えられるし、いわゆるリフレ派とよばれるような人々の多くはこれを望んでいるのだろう。 デフレ脱却時に期待インフレ率の上昇が本当に長期金利の上昇を引き起こすかどうかはハッキリしない部分もあるし、たとえ引き起こすとしても実体経済の回復までのタイムスパンが短ければ長期金利上昇の弊害をオフセットすることも十分可能である。

ただ、現実問題としてはそういったリスクを取れるほど黒田総裁も自信があるわけではなさそうに見えるし、そもそも戦力の逐次投入はしないと初手から全力で「異次元」な金融緩和を実施したのにほんの数ヶ月で倍プッシュするわけにもいかないという事情もあるだろう。 そうこうしている内に、昨年来追い風となってきた世界経済の環境も変わりつつある。 アベノミクスはこの最初の正念場を失速せずに乗り切ることができるのだろうか?