企業のブラック化と少子化の共通要因について

ここ数回の少子化についてのエントリーで、少子化はポジティブフィードバックの性質を持つという話(参照)と、これによるスパイラル化を少しでも食い止めるには若年・低所得層に再分配して少しでも婚期を早める事が有効では無いかという話(参照1,2)を書いてきたが、そもそもなぜ少子化がここまで進んだのかについても考察してみたい。

もちろん少子化の裏には女性の就業率向上や娯楽の多様化等の様々な社会的要因がある事は事実であるが、本エントリーではそれ以外の経済学的?要因について書いてみる。 


日本では近年、ワーキングプアと呼ばれる低所得層が問題となっているが、先日のエントリーでも示したとおり日本では「貧乏人の子沢山」という傾向は全体として見られず、低所得層は既婚率も非常に低く、自ずと子供の数も少なくなっている。 これはまあ当たり前で物価が高い日本で年収200万円位で子供を育てることは容易ではなく、その前に結婚することすら容易ではないということだろう。


ただ、このような状況は歴史的に見て、それほど昔からあった訳では無い。 もちろん昔から低賃金労働は存在したが、その水準が労働人口の維持に満たないという状況が長期的に維持されるというのは歴史的にはむしろ特殊な状況と言える。


何度か紹介している(参照)が、賃金が如何に決まるかについて、「賃金の鉄則」と呼ばれるあまり労働者にとってうれしくない鉄則が存在する。 もう一度紹介すると

「賃金の鉄則」

ラサールが定式化した賃金理論。平均賃金は、労働者の生命の維持と子孫の繁殖とのために一国において慣習的に必要とされる最低生存費に局限される。したがって、資本主義制度のもとでは労働者は相対的に窮乏化する傾向があるという説。賃金生存費説。

http://kotobank.jp/word/%E8%B3%83%E9%87%91%E9%89%84%E5%89%87

ということになるが、ここで注目して欲しいのが「最低生存費」を「労働者の生命の維持と"子孫の繁殖とのために"一国において慣習的に必要とされる」と定義していることである。 少なくともこの当時は「最低生存賃金」と言っても「子孫の繁殖」が可能な程度の「最低」であったということになる。

これは何も昔の企業・資本家が今の企業・資本家より労働者に対して優しかったというわけではなく、もしこの水準を下回る状態が続けばいずれ労働力が不足する事態になり、労働力の需給の関係から賃金が上昇し、長期的には「労働者の生命の維持と子孫の繁殖とのために」必要な水準へと収束するという事を意味している。


ここで翻って日本の状況を見ると、労働人口は既に減少を始めているが、労働市場の需給がタイト化している様子は見えない。 恐らくは経済のグローバル化の波に乗り多くの労働力を必要とする製造業がより安い労働力を求めて海外に進出できるようになったことがその要因の一つであり、結果として賃金が全体として「子孫の繁殖とのために」必要な水準を下回ってもネガティブフィードバックがかかって自律的にその水準に回帰するということにはならなくなったわけである。


つまり、かつては「最低生存費」を決定していた要因の一つである「子孫の繁殖とのために」は既に機能しなくなったという事であり市場経済で決まる「最低生存費」は「労働者の生命の維持のために一国において慣習的に必要とされる最低限の賃金」となってしまったという事である。 これは以前のエントリー(「ブラック企業と「賃金の鉄則」」)でも書いた通り、日本に於ける企業のブラック化の背景の一つでもあると筆者は考えているが、そうであるなら企業のブラック化は資本主義の制度の下で、グローバル化が進んだ場合に起こりうる一つの帰結に過ぎない(ただし必然的な帰結というわけではない。後述)ということになる。


まあ労働者にとって余り愉快な話では無いが、全く救いが無いわけではない。 まず一つ目はこの「賃金の鉄則」は常に成り立つものではなく、又歴史上成り立っていない期間の方が余程長かったという事。 この成り立たない条件については既にリカードが指摘しているが、

デヴィッド・リカードが気づいたように、新しい投資、技術、またはある他の要素が人口より速く増加する労働需要を引き起こしさえすれば、この予測は実現しないだろう。この場合、実質賃金と人口の双方ともが時間に伴い増加する。人口推移(国の工業化に伴う高い出生死亡率から低い出生死亡率への推移)は、賃金を最低生活賃金よりもはるかに高いものへ誘導し、発展した世界の大部分でこの原動力を変化させた。まだ急速に拡大する人口を持っている国でさえ、技能労働者の必要性が、他のものよりはるかに速く上昇する賃金を引き起こしている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%83%E9%87%91%E3%81%AE%E9%89%84%E5%89%87

ということになる。 イノベーションでもなんでも良いが、とにかく労働需要の伸びが労働供給の伸びを上回る状態を維持することが出来れば、実質賃金が最低生活賃金の均衡へ向かう事を阻止することが出来るわけで、実際に高度成長期にはこの原動力は日本でも強く働いていたものと考えられる。


しかしながら、これも現代の先進国においてはそう簡単に充足できる条件では無い。 発展途上国の突き上げと、工業化による生産性の向上は先進国の労働需要を減らす方向への圧力として存在しており、国内の労働需要を増やすことは容易では無い。 実際に日本では全体としてはこの条件が成り立たなくなってきており、実質賃金が最低生存費の均衡に向かう条件が整ってきているように見える。

尚、ここで留意が必要なのは、ここでの「実質賃金が最低生存費の均衡へ向かう」ということは経済の成長が止まるということではなく、経済成長の果実が労働者ではなく資本家(地主)へと集中するということであり、つまり「経済が成長し続けさえすれば多くの国民の実質賃金も上昇し続ける」というわけでは無いということになる。


では全く救いがないかと言えば、そうとも言えない(というか言いたくない)。 以下は前のエントリーの丸コピーとなるが、

では資本主義制度のもとでは(一部の優秀な人々を除く)労働者は相対的に窮乏化することを受け入れなければいけないのだろうか? 


その答はイエスなのかもしれないが、たとえイエスであったとしてもブラック企業やワーキングプアの存在が不可避であるかどうかは別問題、というのが筆者の理解である。 


リカードは「賃金の鉄則」に関し、「労働の市場価格が最低生活または自然賃金を長期にわたって超えることができると信じていただけではなく、自然賃金は物理的に労働者を維持するのに必要なものなのではなく、「習慣と慣習」によるのだ」と主張している。 つまり「相対的に窮乏化」するとしても、その均衡する水準は必ずしも物理的に生きていけるギリギリである必然性は無く、文字通り「健康で文化的な最低限度の生活」が確保される賃金水準が「習慣と慣習」による最低生活賃金であっても良いわけである。その手段としては国民の意識の改革も必要なのだろうが、より直接的な手段としては政府による再分配の強化が考えられる。 政府の介入は経済成長にとってはマイナスになる可能性はあるが、これが資本主義制度が内包する問題であるなら何らかの介入無しに自然に解決される可能性は低いだろう。

つまり、人々がコンセンサスとして「最低生存賃金」を「労働者が健康で文化的な最低限度の生活をおくることができ、かつ子孫の繁殖が可能な」水準であると認めれば、成長の果実が資本家に集中するのを緩和することも可能かもしれないし、どうしても足りない分については政府が再分配によって補うことも可能であるということになる。 そして

もちろんそれでも「相対的な窮乏化」は進むのかもしれないが、高額所得者には程遠くても普通に定時で働いてそこそこの生活ができるだけの賃金をもらってそれなりに幸せな人生をおくるという選択肢は多くの人にとってそれなりに価値があるもののはずであるし、そういう選択肢がない先進国というのは生きづらい社会になってしまうのではないだろうか。

ということになる訳である。


[追記]
日本では「全体として」実質賃金が最低生存費に均衡していく条件が整いつつあるのでは無いかと書いたが、もちろんそうでない人もいる。 以前のエントリー(「ブラック企業と「賃金の鉄則」」)でも書いたが、国際競争力があるような優秀な人材については労働需要の伸びが労働供給の伸びを上回っており、売り手市場が続いている。 一方で、そうでない多数の人については上記のとおり実質賃金の最低生存賃金への均衡圧力が働き続けている。


つまり日本では労働者の所得の二極分化が、そしてそれに資本家を加えると国民の所得の三極分化が進む条件が整いつつあるということになる。


尚、この三極分化については他国と比べると日本は今の所はまだその進行の度合いが低い部類にはいるだろう。 筆者の理解するところでは、この三極分化が最も進んでいるのは米国や韓国だと思われるが、アベノミクスはこの方向を目指しているようにも見え、もしそうなら今後急速に三極分化が進むことになるかもしれない。