なぜ少子化は悪なのか? 

こちらの記事(参照)に少々思うところがあったので、「なぜ少子化が悪なのか」について少し書いてみる。


少子化のマイナス面については経済への影響を中心とした解説が多いが、これは移民や出稼ぎ労働等を増やすことでもある程度対応できる話であるし、経済方面の影響に話を局限すると、最終的には「少子化対策のコストパフォーマンス」が良い悪いという話になってしまう。

もちろんその要素についても十分に検討されるべきではあるが、今回は(重なる所は多いものの)少し別の要素、「文化圏の繁栄に対する少子化の悪影響」について考察してみたい。


ざっくり言えば一つの文化圏(或いは言語圏)の文化的な豊かさは、その圏の経済的豊かさと人口の双方で決まってくる。 

如何に人口が多くても皆が食べていくのにギリギリなら文化の担い手が食っていけないし、逆に経済的に裕福であったとしても人口が少なければ文化的な事業が経済性を持つことは難しくなる。


例えば日本の文化の一つとして漫画があり、無数の漫画雑誌が出版されているが、あれが商業的に成り立っているのは日本語文化圏内に娯楽に一定額以上のお金を使える一定数以上の人間がいてそれを消費するからである。 日本の現在の人口は、母語話者でいけば世界で9番目に過ぎないが世界第3位の経済大国であることもあり、世界でも有数の文化圏を築くことに成功していると筆者は考えている。


ではもし少子化が極度に進み、人口が今の半分、或いは3分の1、になればどうなるだろうか? 仮に日本人一人当たりの豊かさが今と同じ、或いは今以上であったとしても、出版業などの多くの文化関連の商業は今の規模が保てなくなり、大規模な淘汰が行われる事になるだろう。 海外コンテンツの邦訳も、本当に売れるものだけに限定されることになる。 


「それで淘汰されるものはもともと文化的な価値がなかったんだ」という見方も出来るかもしれないが、筆者はそうは考えない。 ある圏の文化的な豊かさは、質が高いものも低いものも含めた多様性そのものによる部分も大きく、それを支えるには一定以上の人口が必要なのである。


「そうなればもっと英語文化圏のコンテンツを楽しめばよいだけだ」という見方も又筆者は支持しない。 幾ら英語教育を進めたとしても皆が英語のコンテンツを日本語のコンテンツ同様に楽しめるようになるとは思えない。 江戸時代以降、広く庶民が文化的コンテンツを楽しめる状況を維持してきたことが日本社会の一つの基盤になっており、一部の「文化的な?」人だけが楽しめればよいという話ではない。 又、今でも日本人が他国語文化圏のコンテンツも楽しむことがいくらでも出来るし、その上で日本語文化圏のコンテンツも楽しめるわけで、それが半分になることがプラスになるという事でもないはずである。


ちなみに別の見方をすれば日本語に依存した文化関連の商業行為は全て極端に「ガラパゴス化」した商業行為である。 世界でも売れるコンテンツが無いわけではないが、殆どのコンテンツは国内限定であろう。 近年「ガラパゴス化」は否定的に取り上げられることが多いが、文化的コンテンツに限らず「ガラパゴス化」した商品は、その商品なりに日本における多様性維持に貢献しており、日本人は多くの面で他国よりも多様性を享受している (そのことは日本の家電専門店と欧米の家電専門店を見比べてみれば明らかだろう)。 

残念ながら耐久消費財の分野においてはグローバル化によりこういった日本固有種の多くが外来種によって駆逐されつつあり、そのトレンドを止めるのは難しいのだろうが、文化的コンテンツの世界では言語の壁という障壁が高い為、「ガラパゴス」はまだ健在であり、種の存続に必要な個体数さえ維持できさえすれば当面は安泰であろう。


まあ、だからといって少子化対策がコストパフォーマンスを完全に無視したものであっても良いという話でもなく、又、少子化に対して根本的な対策があるという訳でもないのだが、自分の子供、孫、ひ孫にも引き続き日本語文化圏を享受してほしいと考える筆者にとっては、少子化対策はある面からみて少しくらいコストパフォーマンスが悪く見えても、是非がんばって推進して欲しいという話である。


[追記]
尚、移民が日本語文化圏を発展させる可能性を否定するわけでは無い。実際に外国人で日本語文化圏に貢献した人は幾らでもいる。唯、規模的に考えればそれに大きく期待するのは難しいだろうし、やはり日本の少子化対策が重要という事には変わりないはずである。