アベノミクスで実質賃金は上がるのか?下がるのか?

いよいよアベノミクスでリフレ政策が実施される見込みとなったことで、これまで「マクロ」な話として議論されてきたリフレ政策の個人レベルでの影響に注目が集まり始めている。 その中でもやはり注目を集めているのはインフレが進む中、それ以上の割合で給与が増えるのか、つまり実質賃金が上がるのかどうか、である。


マクロ的な観点からみれば、リフレ政策における安倍政権のブレーンの一人である浜田宏一・内閣官房参与がインタビュー(参照)で率直に語っているように、高止まりした実質賃金を下げることがインフレ政策の狙いの一つであることは間違いないだろう。 そのインタビューの関連部分を引用(太字は筆者)すると

名目賃金は上がらないほうがよい
その理由はあまり理解されていない


――では、こうした金融政策をやれば、経済はどのような経路で上向くことが考えられますか。デフレから脱却して「名目成長率」が上がり、それがどう「実質成長率」の上昇に結び付いて行くのでしょうか。

物価が上がっても国民の賃金はすぐには上がりません。インフレ率と失業の相関関係を示すフィリップス曲線(インフレ率が上昇すると失業率が下がることを示す)を見てもわかる通り、名目賃金には硬直性があるため、期待インフレ率が上がると、実質賃金は一時的に下がり、そのため雇用が増えるのです。こうした経路を経て、緩やかな物価上昇の中で実質所得の増加へとつながっていくのです。
その意味では、雇用されている人々が、実質賃金の面では少しずつ我慢し、失業者を減らして、それが生産のパイを増やす。それが安定的な景気回復につながり、国民生活が全体的に豊かになるというのが、リフレ政策と言えます。

よく「名目賃金が上がらないとダメ」と言われますが、名目賃金はむしろ上がらないほうがいい。名目賃金が上がると企業収益が増えず、雇用が増えなくなるからです。それだとインフレ政策の意味がなくなってしまい、むしろこれ以上物価が上昇しないよう、止める必要が出て来る。こうしたことは、あまり理解されていないように思います。

ということになる。 

これは多くのリフレ派が明言を避けてきたポイントであり、だからこそ「あまり理解されていない」ということになるのだと思うが、ロジックとしてはそれなりに筋が通っている。そして短期的な実質賃金の低下が「安定的な景気回復」に繋がり、「国民生活が全体的に豊かになる」というのが本当なら当然政府としては十分に検討の価値があるだろう。


しかし、一方で安倍首相や麻生財務相が経団連などに賃上げを要請して廻っていることも事実である(以下参照/太字は筆者)。

麻生氏、経団連に賃上げ要望「いろいろな形で」


麻生副総理・財務相は1日午前、経団連の米倉弘昌会長ら幹部と都内のホテルで会談した。安倍政権が最優先課題に掲げるデフレ脱却・経済再生の実現ため、従業員らの賃金引き上げを要望した。

麻生氏は会談で、「いきなりベースアップしろと、むちゃくちゃなことを言っているわけではない。いろいろな形のものが出てくることを心から期待している」と述べ、一時金(ボーナス)などで報酬引き上げを進めるよう要請した。

これに対し、米倉会長は「会員企業にも周知徹底している」と述べ、対応を急ぐ考えを示した。

(2013年3月1日12時23分 読売新聞)


この二つの主張は一見反対のことを言っているようにも見えるが、リフレ政策が"成功する場合に"どのような事が起こるかを考えれば単純に矛盾しているとは言い切れない。 国際競争力強化を景気回復の一つの柱と考える立場からみれば、円高で苦しんでいた企業は人件費の抑制で競争力を回復させる必要があり、かと言ってみんな揃って実質賃金が抑制されてしまっては国内消費が落ち込み、かえって景気回復の足を引っ張ることになる。 つまりマクロ的には実質賃金が下がることによる波及効果が期待されているのと同時に、個別にみれば賃金を上げられる会社は率先して賃金を上げてくれないと上記の波及効果も期待薄になってしまうということになる。


これだけだと何のことだか分かりづらいので解りやすい?例を挙げて説明すると

  1. 円安により国際競争力が強化された輸出企業は日本経済回復を牽引することを期待されている
  2. 円安で(ドル建て)人件費が抑制されたことにより強化された国際競争力は賃金がどんどん上がっていけばその分毀損されてしまう。つまり(ドル建て)賃金が上昇しすぎると、駄目。
  3. 但し、実質賃金は円建ての名目賃金と物価の上昇率で測られるため、輸出企業での実質賃金の上昇とドル建て賃金の抑制は同時に達成することも可能。
  4. その為に必要なのは絶対的な物価水準(或いはドル建てで評価した物価水準)の低下であり、非貿易財の相対的な価格下落。それは内需産業(サービス業等)での相対的な賃金の下落にも繋がる。

ということになる。 つまり、

  • 輸出企業での賃金上昇率>一般物価上昇率
  • サービス産業の賃金上昇率<一般物価上昇率
  • サービス産業の価格上昇率<一般物価上昇率
  • 一般物価上昇率> 0%

という状態が一定期間続くことで、結果として輸出企業では実質賃金が順調に伸びる一方で、ドル建て賃金の上昇は一定範囲内に抑制されるという状態が達成されることになる。

この時、[輸出企業での賃金上昇率<一般物価上昇率]であれば、輸出企業の国際競争力は更に上積みされるかもしれないが、勝ち組の企業にまで賃金の上昇を必要以上に抑制されては、それこそデフレ圧力となり、円安による輸入物価の上昇と共に景気回復の重しとなってしまう。よって、短期的に名目賃金を上げられる余力のある企業が率先して賃金を上げ国内消費のけん引役となってくれることも、政策成功の為の要件の一つとなるわけである。


尚、上の例では分かりやすく「輸出企業」と「サービス企業」としたが、これをもう少しちゃんと一般化すれば勝ち組企業と負け組企業、或いは高労働生産性企業と低労働生産性企業ということになる。輸出企業であってもシャープ等の家電メーカーは当分賃上げどころではないだろうし、一方で80円でも十分に利益を出せていたトヨタは円安になったことでかなりの賃上げ余力を得たはずである。

よって負け組企業は当面のインフレ圧力を利用して実質賃金の抑制に努めると同時に、(困難ではあるが)なんとか労働生産性の向上を目指して努力することになるだろうし、他に選択肢はない。 一方で労働生産性の高い勝ち組企業には二つの選択肢がある。 一つは負け組企業と同様に実質賃金を抑制して株主配当を厚くするオプションであり、もう一つは一定の賃上げを許容しつつ、かつ雇用も増やして成長戦略をとるオプションである。 もちろん政府の念頭にあるのは後者であり、経団連等への度重なる要請もこれを狙ってのものと言える。(逆に言えばこの部分を「要請」に頼らざる得ない所がこの「成功」シナリオの弱い所とも言える。)


これらが成功裏に成し遂げられれば、恐らく実質賃金は平均では上昇することになるが、各産業・企業別の賃金格差は拡大する。又、購買力平価(PPP)でみた一人当たりGDPは上積みが期待できる。日本では物価の下落ばかりがクローズアップされ、ともすれば「物価が安すぎる」と言われる事も多いが、他の先進国との比較で言えば日本は(特に東京は)もっとも物価の高い一群に属しており、日本の物価はまだまだ高すぎる。それが先進国でも上位のドル建て賃金を受け取りながら、PPPでみた賃金が低い理由の一つになっており、物価さえ下がれば同じドル建て賃金でより豊かな暮らしができるようになる。(但し誰もがアベノミクス成功後にアベノミクス前と同じかそれ以上のドル建て賃金を貰えるとは限らないが、)


さて、掲題の疑問に戻ると、貴方が勝ち組企業に勤めているなら実質賃金は上がる可能性がある(特に正社員の場合は)が、負け組企業、労働生産性の低い企業に勤めている場合は実質賃金は当分は上がらないし、上がり始めたときには今よりも相対的に貧しくなっている可能性が高い、というのが筆者の理解という事になる。


これは低労働生産性企業の労働者にとっては不公平にも見えるがデフレ下で高止まりしていた実質賃金が労働生産性に対して調整されるだけ、とも言える問題で、一概に間違っていると言えるわけでは無い。 そして上手くいけば次のステップとして労働生産性の低い産業の相対的な賃金下落により労働者が他の産業に流れることによって、低労働生産性産業内での競争が弱まり、労働生産性が改善されるようになるかもしれない。 これはよく言えば人的資源の最適化ということに繋がるし、内需産業に於ける「販売価格-仕入れ値」が拡大する事を通じてインフレ圧力にもなる。 


尚、労働生産性の差異に対する実質賃金の調整はアベノミクス・リフレ政策が行われようと、行われまいと長期的には進んでいく話ではある。 問題はこのような調整を政府の政策によって加速させることがどのような副作用・弊害をもたらすかであり、特に富の再分配が十分に機能しているとは言い難い日本に於いて、その整備を置き去りにしてやることが正しいのかという点には個人的には疑問が残る(本当に成功するのかという本質的な疑問とは別に)。
筆者の嗜好からすると、この「成功」でもたらされる可能性のある社会は必ずしも今の日本よりも好ましいものとは思えないが、少なくともアベノミクスが「失敗」した場合の日本よりは好ましいことは確かであり、やるからには権限があろうがなかろうが積極的に口先介入・政治的圧力を活用して、アベノミクスを「成功」へと導いて欲しいものである。