岩田規久男新日銀副総裁 -日本のフリードマン- は何を金融政策にもたらすのか

次の日銀人事がほぼ固まり、副総裁には岩田規久男氏が就任する運びとなるようだ。


言うまでもなく、岩田氏はリフレ派の中心的人物であり、Wikipediaによると氏の一般的な評価は

岩田自身の考え方は、かつての師と同じくマネタリスト的と評されることが多く、財政政策の有効性や金融政策の裁量というものに一定の理解を示していることから、ニュー・ケインジアン的な立場に接近していると捉える。
多くのリフレ派の経済学者たちや反デフレ議員連盟の主要メンバーらは岩田を英雄と称えている。
経済学者の浜田宏一は「徹底した貨幣重視の論調を、続けてこられた氏の忍耐強い姿勢には尊敬の念でいっぱいである」「日本のミルトン・フリードマンは間違いなく彼だ」と評価している。
エコノミストの村上尚己は「(岩田は)日本が1990年代半ばから20年近くのデフレと経済停滞に苦しむリスクについて、最も早く見抜いていた」と評している。

ということになる。


いきなり余談になるが、少し面白いのは岩田氏が浜田宏一教授から「日本のフリードマン」とたたえられている所で、岩田氏も現日銀総裁の白川氏も東大経済学部教授だった小宮隆太郎門下生だが、実際にフリードマンを始祖とするシガゴ学派の本拠地に留学したのは白川氏のほうであり、フリードマンの最後の講義も受講したそうである。 両氏の恩師にあたる小宮氏は日銀理論批判を行っており、その点では岩田氏と同じとも言えるが、リフレーション政策には反対で岩田氏の主張に懐疑的とされている。ちなみにもう一人の副総裁候補である中曽宏氏も小宮ゼミ出身である。
なお浜田教授が白川総裁のことを「教え子」という微妙な呼び方でよんでいるが、白川・岩田両氏は小宮門下生であり、池田教授によると白川総裁本人も「私は小宮ゼミだ。弟子と呼ぶのはやめてほしい」と言っているらしい。「恩師の評価」というものがどれほど意味があるかはともかく、そういうものが欲しければマスコミは浜田教授ではなく小宮氏にその評価を聞いてくるべきである。


で、本題に戻ると岩田新副総裁が日銀にもたらすのは、金融政策に対する「自信」だろう。 

よくも悪くも近年の日銀の金融政策は「金融政策の限界」と「金融緩和の弊害」を強く意識した運営となっていた。

一方、リフレ派の中心的人物だった岩田氏にはそのような迷いは感じられない。このあたりの雰囲気をみると筆者には「日本のフリードマン」というより「日本のバーナンキ」と呼ぶほうがぴったり来るように感じられる。 両者ともマネタリスト的であり、金融政策の効果・限界を非常に高く評価し、一方でその弊害を低く、かつある程度コントロール可能なものとみなしている(もちろん筆者の目から見れば、ということだが)。


そういった意味では岩田氏の採用はリフレ政策を推進し、かつ成功させるためには、ある意味最適な人事と言える。同じリフレ的な金融政策を取るにしても「期待に働きかける」という点では自らの政策の効果に「自信」に満ち、かつ弊害を怖がらないと思われる人間がやったほうが高い効果が期待されることは間違いないだろう。バブルやインフレに対して高い警戒心を持っている人間が少しくらいがんばって金融緩和をやっても、状況が変わるとすぐに引き締めに移ると予測されるため、効果がどうしても薄まってしまう。このあたりのロジックはリフレ派によって繰り返し主張されているものでもある。


では問題は何かと言えば、その「自信」を基に進められるであろう大胆な金融政策が、(1) 実際の所その「自信」通りの効果を表すのか、という点と(2) 弊害が許容範囲内に留まるか、という点になる。効果が思い通りでてこないだけなら大きな問題にはならないが、効果を大きく上回る弊害が出てくる可能性も否定できない。金融緩和を「自信」を持って思い切ってやればやるほど成功する確率も高まるのかもしれないが、失敗したときのインパクトも又その分大きくなる。言い換えると岩田新副総裁がもたらすもう一つのものは金融緩和をやり過ぎることによって大きな弊害がもたらされる可能性(リスク)だということになる。


弊害については様々なものが考えられるが、その弊害の中でも分かりやすいのはインフレのリスクである。

よく「デフレ下では金融政策の効果自体が薄いと主張する一方でインフレの心配をするのは矛盾している」という批判が聞かれるが、こういった批判は物事を単純化しすぎているように筆者には思われる。

このデフレ下での金融政策無効論とインフレ懸念論は同じ問題意識の裏表であり、要は金融政策が短中期に信用乗数(貨幣乗数)をコントロールできるのかという問題である。「ハイパワードマネー×信用乗数=マネーサプライ」は恒等式であり、マネーサプライとインフレの間に密接な関係がある事は分かっている。つまり金融政策とインフレの間の問題は金融政策が信用乗数をある程度コントロールできるか(もしくは信用乗数は金融政策に拠らず安定的なのか)という問題だとも言える。

この観点からみれば、金融政策無効論はデフレ下では(日銀が直接コントロールしている)ハイパワードマネーを増やしてもその分信用乗数が減るだけでマネーサプライへの影響はきわめて限定されるという考えであり、一方インフレ懸念は、もしインフレ率が上がらないからとハイパワードマネーを積み上げすぎると、信用乗数が少し上昇しただけでもマネーサプライが爆発的に増えるため、その時になって少しくらいハイパワードマネーを回収してもマネーサプライの短期的な急騰を抑えきれないのではないかという考えである。


ちなみにこれは特別な考えでもなく、例えば金融緩和に積極的であった前FRB議長のグリーンスパンも2003年6月のFOMC会合で以下のように述べている(以下、「himaginaryの日記」様の翻訳より引用。オリジナルはこちら。太字は筆者。)。

グリーンスパン議長
・・・私は答えを知らないし、このテーブルに座っている誰も答えられないであろう、興味深い問題がある。しかもそれは決定的に重要な問題なのだ。量的緩和のパラダイムでは、貨幣と物価の関係は長期的には極めて密接であると一般に仮定されており、皆それを暗黙の前提として話をしている。その仮定によれば、貨幣供給を無限に増やせば、物価水準はとにかく上昇するのであり、そうでなければ、我々は皆経済学の学位を大学に返上すべき、ということになる。しかし、我々が分かっておらず、残念ながら想定という形を取っていること、それも取りあえず無意識のうちに想定していることは、貨幣供給の増加と物価の上昇との関係は連続的かどうか、という点である。我々は微積分で言う不連続性がその構造には存在しないと信じる傾向にある。私が敢えて言いたいのは、それが本当にそうなのか我々は分かっていない、ということだ。実際のところ、私は日本人がひたすら貨幣供給を増やしてきたことをいつも懸念してきた。彼らは法外なまでにマネタリーベースを増やそうとしている。物価水準は低下するのをやめ、上昇に転じた後、爆発的に上がっていくかもしれないが、その際の不連続性は極めて危険な現象である。彼らの債務の額、貨幣供給量、金融システムの状況は我々が知っている通りだ。
中央銀行が貨幣――多くの場合ハイパワードマネーだが――を創造し続けているにも関わらず、物価水準が下落を続ける、と信ずべき長期的な可能性は存在しない。そうしたことが起こるとはまず信じられない。
しかし我々は、スムーズかつ非不連続的な方法でそれを逆転させることができ、その変化はディスインフレ状態の金融システムから穏やかなインフレ状態の金融システムへの転換といった形で現われる、と想定している。それが本当だったら良い、と私も思う。その点を明示的に確認せずにこの席でそうした話がなされていることは私には分かっている。私はその点について証明した人を誰も知らないし、そうした現象が実際に起こるまで本当かどうか分からないのでは、と考えている。ということで、ここでは問題の提起に留めておく。これについて素晴らしい洞察をお持ちの方がいれば、是非メモを拝見したい。
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20120221/the_his_pathologist_role_larry_ball_missed_a_couple_of_important_signs

で、これに対して答えたのがバーナンキ氏で、

バーナンキ氏
議長、大恐慌時代のデフレーションは極めてスムーズに終了しました。1932年のインフレ率はマイナス8%で、1933年はプラス1%でした。ということで、実例が一つあります。

と述べている。

このやり取りはバーナンキ氏の金融政策に対する「自信」の高さを非常に良く示唆しているように筆者には思われる。 ケチャップで有名な?バーナンキ氏であるが、いわゆるケチャップ理論は信じていないという事のようだ。


バーナンキ氏が正しければインフレについては弊害として心配することはないかもしれない。実際にインフレがギャロッピングしはじめれば引き締めればよいわけである。 但し、上述の議論の後にグリーンスパン氏が述べたように「小サンプル理論で学んだところによると、サンプル数が一つの場合は分散が非常に高い」わけであり、バーナンキ氏、或いは岩田氏が持っているであろう「自信」の根拠について懐疑的な筆者としてはバーナンキ氏の考えが「それが本当だったら良い」と願いつつ、やはりそれなりの準備をせねばならないかと考え始めている所である。