投資判断と一般均衡・部分均衡分析について

前々回のエントリーでは新たな投資が特定の市場に対して引き起こすのは供給の増加であり、それは投資家に対して価格の上昇ではなく価格の下落を予測させるものである(故にインフレ期待が投資を活性化させるというのはそう単純な話ではない)と考察したが、それに対し「一般均衡的」な見地が抜けているとの指摘があった。


この指摘はある意味で正しい。 当該エントリーでは筆者は企業の投資判断は主に部分均衡的な見地から下されると想定しており、一般均衡的な見地をある意味無視している。

部分均衡と一般均衡の違いについては既にご存知の方も多いと思うが、1つの財の市場における価格と需給量の決定をあつかうのが部分均衡分析であり、現実世界のように多くの財の市場が存在するときにそれらの価格と需給量の同時決定を扱うのが一般均衡分析である。


ではなぜ筆者が部分均衡的な見方を前面に出し一般均衡を無視するような形で投資判断について考察したかといえば、筆者の理解では現実における投資判断がそのように行なわれるからである。


大雑把に言えば、部分均衡的に考えれば、ある市場に対する追加投資はその市場の供給を増やす事に他ならず、その市場の価格水準を下げる方向に働く。 これは前回書いた内容そのものである。

しかし一般均衡的に考えれば、ある市場に対する追加投資は労働市場を含む他の市場における需要となり、それは他の市場での新規投資を促し、その新規投資は廻りまわって自らの市場に対する需要増を誘発し、その需要増が供給増より大きくなれば価格は上昇する。 


では現実の世界で投資を行なう人々はどのように投資判断を下しているのだろうか?


実際に全ての人の考えを調べる事は不可能であり、確定的な事は誰にも言えないかもしれないが、基本的には前者、つまり部分均衡的な考えに基づいて投資判断が行なわれる場合が殆どではないかというのが筆者の理解である。

自らの投資が他の市場の需要になり、それが廻りまわって自らの市場の需要にもなり、売り上げを後押しするはずだから、部分均衡的に考えれば採算がたたないが、ここは思い切って投資をしよう! というような話は筆者には想像できない。


これとよく似た話で、「企業が人件費を削減するのは廻りまわって自らの売り上げの減少に繋がるのだから自らの首を絞めているようなものだ」というようなのもあるが、一般均衡的には正しくても、その正しさに基づいて率先して我が社の給与をあげる事にしました!みたいな話はやはり殆どありえないだろう。(まあ昔の話だとヘンリー・フォードの話とかは少し近いか?)


もっとも、投資判断にある種の一般均衡的な見地が存在しないわけではない。 例えば景気予測調査のようなものはそれを含んでいるとも考えられる。 景気が改善する見込みがあれば多くの人が投資を行い、消費を増やすと予測されるため、その需要を見込んで実際に投資が活性化し、失業率も減り、消費も活性化される。 要は景気が良くなるという見込みは景気を良くするという繰り返し語られてきた話である。 しかし、景気が良くなるという予測を外生的に起こす事は簡単ではない。 人々は馬鹿ではないので、その政策が実際に景気を良くする力が無いと考えれば予測を起こす事は出来ない。これも又すでに繰り返し語られてきた話である。 


つまり、その政策が「景気を良くする(或いは需要を活性化する)」という期待を引き起こさなくても直接的に景気を良くする力がある場合のみ期待に働きかける事が出来るのであり、期待に働きかける効果を無視してその政策の有効性を評価することは、その政策が期待に働きかけることができるかどうかを評価していることでもある。

よって、今回の場合、ゼロ金利下の量的緩和に需要(消費や投資)を活性化させる直接的(即物的)なルートはあるのか、という点こそがその政策が期待に働きかける事が出来るかどうかという分岐点であり、その分岐点において実際に投資を行なう人々は主に部分均衡的見地に立って判断を下すはずであり、そしてその観点から考えればゼロ金利下の金融政策は需要を活性化させる直接的なルートを持たない(=需要が活性化されるという期待を引き起こす事が出来ない)のではないか、というのが繰り返しになるが前々回のエントリーの結論ということになる。