「家賃の名目硬直性」について

前回のエントリーに関し、id:Lhankor_Mhy様から非常に興味深い論文を紹介していただいたのでそのデータを下に住宅価格と家賃についてもう少し考察してみたい。


「家賃の名目硬直性」 清水千弘/渡辺 努
http://www.ier.hit-u.ac.jp/ifd/doc/IFD_WP66.pdf


この論文の考察で住宅価格と家賃の関係について考察した前エントリーと関係がありそうなところをまとめると以下のようになるだろう。

1.日本における家賃の価格硬直性についての考察
家賃が変更される住戸の割合は1 年間で約5%であり、これは諸外国と比べても極端に低い。その背景は
1.1 店子の入れ替えが少ない一方,家賃の契約期間が2 年と長いため,そもそも家賃を変更する機会が限定されている
1.2 店子の入れ替えや契約更新など家賃変更の機会が訪れても多くの場合家賃を変更していない


2. 家賃改定は時間依存型モデルであること
各住戸の家賃が変更されるか否かは,その住戸の現行家賃が市場実勢からどの程度乖離しているかにほとんど依存しないことがわかった。つまり,家賃改定は状態依存ではなく時間依存である。


まず、1については筆者もそれほど異論は無い。 他の財・サービスと比較すれば契約期間が長く、また引越し等の費用も掛かるため簡単に乗り換えられないことは間違いなく、よって相対的には価格硬直性が高いと考えてよいものと思われる。

ただ、前回エントリーで取り上げた「バブル期に上昇した家賃が住宅価格が下落した後も高止まりしている」という事象については価格硬直性だけでは説明がつかない。 

住宅価格上昇時には、住宅価格ほどは上がらなかったにしても平均すれば家賃は大きく上昇した一方で、その住宅価格下落時にはその下落率はより激しくかつその期間も10年以上と上昇期にくらべて短かった訳でも無いのに家賃の下落は非常に限定的であったわけであり、これを説明するには価格硬直性の「非対称性」に対するロジックが必要となる。


では2の指摘はどうだろうか。 論文では2008年のデータを基に、契約の更改等の価格改定の機会においてその価格変更が「状態依存」か「時間依存」かについて評価を行なっている。

ある月にある住戸では家賃の変更が行われ,別な住戸では家賃の変更が行われない。この差はどこに起因するのだろうか。これについては2 つの考え方がある。ひとつは,それぞれの住戸には望ましい家賃水準というものがあり,そこから大きく乖離したときに家賃が変更されるという考え方である。この考え方では,望ましい水準からの乖離が大きければ大きいほど家賃が変更される確率が高まると考える。現行の家賃が望ましい水準からどれだけ乖離しているかは「価格ギャップ」とよばれるが,この言葉を使えば,家賃の変更確率が価格ギャップに依存しているということである。この考え方は「状態依存」型の価格設定とよばれている。これに対して家賃の変更確率が価格ギャップに一切依存しないという考え方もある。つまり,現行家賃が望ましい水準から近かろうが遠かろうが家賃の変更確率は変わらないという考え方である。これは「非状態依存」型の価格設定または「時間依存」型の価格設定とよばれている。


結果として2008年のデータを用いたこの論文での解析では「家賃の変更が「状態依存」型ではなく「時間依存」型ということを意味する。」ということになっている。 しかしこれはあくまで「家賃の変更確率」が時間依存というだけであり、価格改定の方向性については

つまり,現在の支払い家賃が適切な水準(市場実勢)よりも高い住戸で店子の入れ替えが起きると,そうでない住戸で店子の入れ替えが起きた場合と比較して,家賃が変更される確率が高い。支払い家賃が市場家賃よりも高い住戸では,新しい店子を探索する際においては低い家賃で設定しない限り,新しい店子を見つけることができないことを示唆するものと考えられる。

と、価格が市場実勢より高い場合は家賃の引き下げが起こる確率が高いことが示唆されている。 つまり家賃の変更確率が「時間依存」であったとしても価格自体は時間をかければ「適切な水準」へと均衡していくということである。

また、細かな点を見れば、既存の家賃が市場実勢より高い場合の方が契約が新規となる確率が高く、契約が新規となった場合に価格が見直される確率も家賃が市場実勢より高い場合の方が確率が高い。又、契約が継続されるケースでは家賃の改定が行なわれない確率が高い(図7参照)。 これは割安な家賃は改定されにくく、割高な家賃は改定されやすいということで、むしろ家賃に上昇硬直性があることを意味しているようにさえ見える(注1)。 


よって定量的な評価は難しいものの、「家賃の変更確率」が時間依存であることはバブル後の家賃の下落速度がバブル期における家賃の上昇速度に比べてはるかに遅い説明にはならないように思われる。


ちなみにバブル期における家賃の上昇が「状態依存」を強く受けたものだと考えるとどうだろう? 

これは価格ギャップを評価する基準となる「市場実勢」をどう見るかにもよる(注1)が、住宅価格がピークをつけた1990年代前半は家賃が安すぎる状態となっており、その為家賃改定に大きな圧力が掛かっていたと考えることはそれほどおかしな話ではない。 では2008年のデータで「状態依存」が殆ど観測されなかったことについてはどう考えればよいのだろうか?

筆者は前エントリーで、1990年代前半から現在までの住宅価格が下落する一方で住宅価格が高止まりしたことは(住宅価格に比して)安すぎた家賃が適正水準へと戻っていく過程ではないかと考察したが、この過程は「状態依存」が弱まる過程と考えられるため、2008年頃には「状態依存」が殆ど観測されないくらいになっていたとしても不思議は無い。

一方でバブル崩壊後の期間が家賃が(非対称な)価格硬直性(下方硬直性)によって高いほうへとどんどん乖離してきた過程だと考えるなら、その末期である2008年は乖離が最も大きくなっており、「状態依存」が強くなっていたはずではないだろうか。


いずれにしてもこの論文の取り上げている家賃の特性については改定がどの程度の頻度で行なわれるか、その頻度が何によって影響されるかという部分が中心であり、各時点における「望ましい価格水準」についての考察ではなく、「なぜ住宅価格と家賃は連動しないのか」の一つの説明としては興味深いものであるが、住宅価格上昇時には上昇した家賃がその後の住宅価格下落時には高止まりしていることへの直接的な説明としては弱いように思われる。


ただ、「住宅価格を中心とした資産価格の急激な上昇とその後の下落が,金融システムに対して甚大な影響をもたらすことで経済活動の停滞を招いた共通の歴史を持つ」多くの先進諸国におけるこういったデータの蓄積から「金融危機がもたらされる背後には,多くの共通する経済現象が発生していること」を検証することは今後のバブルの抑制における非常に重要な手がかりとなることは間違いなく、結論部で述べられているようにこういった指標の整備は「資産価格の変動と家賃の変動との関係に関しての解明」と共に強く要望されるものだと考えられる。


[注1]
余談だがこれはLhankor_Mhy様のエントリーの2番目の指摘(以下)とも繋がるんでは無いだろうか?

予想としては「長く居住している人は、旧来の家賃を払い続けているため高い家賃水準になってる」「最近入居した人は、大家が入居を促進するために家賃を下げるため低い家賃水準になってる」「だから、同じ建築時期の物件は入居時期が最近であるほど家賃が下がる」というものでした。

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 逆ですね。バブル期以降、建築時期が同じ物件は入居時期が最近であるほど家賃が上がっています。特に築5年ぐらいの物件について、新築時から住んでいる人よりも中古物件として借りた人の方が家賃が高いとか、なんだそりゃ、って感じです。
http://d.hatena.ne.jp/Lhankor_Mhy/20120424

要は築浅でしかも割安な物件に巡り合った人は契約の延長を続けるが、契約延長時の価格の改定は稀であり家賃も割安なまま維持されやすい。 一方で割高な物件は契約が延長されず、また新規契約時には価格は適正な水準に見直される。 そして、その積み重ねとして長期間住み続けている人程払っている家賃は割安になり、一方で新築時の家賃が割高だったりして延長されずに改定を重ねた物件の家賃は適正な水準になっている、と考えれば、この不思議な現象も説明がつくような気がする。 一種の生存バイアス的な効果ともいえるかもしれない。(つまりLhankor_Mhy様の「長期入居者が住む物件は、一般に賃料が相場より低水準」という仮説と同じ(多分))

また、この効果と併せてLhankor_Mhy様も指摘されている「大家さんの努力」、つまり新規契約時に家賃が下落することが見込まれるときに「リフォームなどで設備を更新し、物件の価値を上げて入居者を呼び込むと同時に賃料の低下を防ぐ」行為(或いは思い切って新築する行為)が行なわれていると考えれば、改定が何度も行なわれている物件(つまり最近契約した物件)程、設備投資が行なわれてきていると考えられるため、相乗効果でこの傾向がより強化されるのではないかと思われる。


[注2]
ちなみに「市場実勢」を単に「ある時点での相場」という見方をすれば(論文中の取り扱いはこれに近い?)家賃が一定割合以上の上昇・下落トレンド上にあるときは「状態依存」が相対的に強くなり、家賃が安定的であるときには「時間依存」が相対的に強くなる、というある種の「鶏と卵」的な話になってしまう気もする。