「投資」と「投機」の違いについて

前回のエントリーでは「バブル」について書いたが、「バブル」と密接な関係にあるのが「投機」である。 よって今回は「投資」と「投機」の違いについて筆者の考えを書いてみる。

最初にお断りしておくが、以下に述べる「投資」は一般に考えられているより範囲が狭いように見えるかもしれない。もとより筆者は一般的な用法として以下の定義のみが正しいというような主張をするつもりはないが、ただ、少なくともこの切り分けで「投資」となるものは本質的に「投機」とは違うし、逆にこの切り分けで「投機」となったものは一般には「投資」とされていたとしても、それが「投機」化することが多々あると考えており、以下の定義は筆者がそういった資金の流れを見る際の目安としている基準という事である。

「投資」と「投機」の違い
最終消費者・需要者以外からの資金がある市場に流入する時、その資金が収益を上げると同時に最終消費者、需要者にも利益がもたらされる類の資金の移動が「投資」、その資金は収益を上げる一方で、最終消費者、需要者には直接的な利益をもたらさない類の資金の移動が「投機」。


例えば前回エントリーした住宅バブルの例においては資金の流入が住宅価格相場を吊り上げたとき、そのことによって利益を上げられるのは供給者と仲介者(或いは資金提供者)だけであって、住宅の最終需要者である人々(居住者)には直接的な利益はもたらされない。 むしろ住宅から受ける効用は同じなのに価格だけが上がっていくわけで新たに取得する人々にとっては不利益がもたらされていると言ってもよい。 こういった資金の移動は否定的な意味での「投機」と言ってよいだろう。

同じ住宅関連でも人口増加局面でニュータウンを開発するような場合は基本的には「投資」である。 その開発によって供給者・資金提供者はもちろん利益を上げることができるが、住宅不足の状況下での新規住宅地開発は需要者にとっても利益となるからである。 又、同じ理由で賃貸物件が不足しているときに賃貸マンションなどを建てて運用するのも「投資」と言ってよいだろう。

つまり人口増加等により需給が逼迫し、住宅価格に上昇圧力が掛かった場合、ニュータウン開発等で供給を増やしてそれに応えようという動きは基本的に「投資」であるが、上昇局面に乗じて儲けようとして転売目的で住宅を買い込むような動きは「投機」ということになる。


更にこの観点から見た「投資」と「投機」の重要な違いについて以下に2点挙げる。

  • 「投機」はある程度希少性があり、価格の上昇によって供給量が容易に増加せず、代替もききにくいものであれば何でも対象となりうる。 
  • 「投資」は資金が集まれば集まるほど期待収益率が下がっていく、つまり自律的に適正な範囲で均衡する、ものであるのに対し、「投機」は資金が集まれば集まるほど加熱していく、つまり外的な働きかけ(もしくは崩壊へのきっかけ)がなければどんどん発散していく。


前者と後者は密接に関連しており、ある財が一時的に需給が逼迫して価格の上昇を招いたとしても、その財が価格の上昇を反映した「投資」の増加によって短中期的に需給が調整される種類のものであれば、「投機」の対象にはなりにくいという事になる。 

そういった場合は供給不足によって価格が上昇すれば追加的に「投資」が行なわれ、結果として価格も一定の範囲内に収まる。 この場合、「投資」の量が概ね適切であれば「投資」を行なった側も期待していた利益を上げることができ、かつ消費者も供給の増加と価格の安定によって効用が増加する。 両者に利益がもたらされる訳である。

又、稀に「投資」が行き過ぎるケースもあるが、そういったケースでも最終的には価格の下落によって「投資」資金の流入が自律的に収まる。 この場合、資金提供者は期待した収益を上げることができないが、消費者はやはり供給の増加と価格の安定(下落)によって効用が増加する。


一方で住宅(土地)のように供給量が容易に増やせないケースでは「投機」が過熱しやすい。 

このようなケースではもともと供給が不足して価格が上昇していたところに「投機」目的の資金が更に流れ込むわけで、価格は更に高騰し、その価格の高騰が更なる資金を呼び込むこととなる。 これらは既に述べたように最終需要者にとっては明らかに何のメリットも無い資金の流入であり、しかも自律的に収束しにくい。 実際に日本のバブルは結局政府・日銀が遅すぎた対策に乗り出すまで崩壊せず、山手線内側の土地でアメリカ全土が買えるという普通に考えればありえないような馬鹿馬鹿しい状況になるまで加熱していった。 


又、住宅、土地以外にも古くは珍しいチューリップであったり、近年では金や資源、或いはIT株等、価格が高騰しても容易に供給量を増やせず、代替も効きにくい財は多数存在しており、「投機」の種は尽きない。

このことは事前に規制のみによってバブルの発生を食い止めることが難しいことを示している。 住宅に規制をかければ資源に、資源に又規制をかければ〇〇に、という風にどんどん目先を変えて資金が移動し、いざそこが狩場となればどんどん資金が集中し、その資金の集中が更なる投機資金の流入を呼ぶ。 「投機」に手を出すかどうかは個人の自由であり、この流れを完全に絶つことは難しいものの、規制の不足と低コストの資金の余剰が共にその誘因となりうることは過去の経験から推測でき、投機を適切なレベルに抑制するには両者を平行して上手くコントロールする施策が求められることとなると考えられる。


「投機」的な資金の移動が間接的に利益をもたらすケースがある事は否定しないし、為替市場のように一定の「投機」的な資金が存在することによって変動が抑えられるとされるケースも確かに存在する。 しかし近年の傾向を見るにそのようなケースであっても過剰な「投機」的資金の流入は却って変動を高め、経済の長期的安定にとってマイナスの影響をもたらしている局面が多くなりすぎているように感じる。

結局の所「投機」はそれ自体よくてゼロサムのマネーゲームであり、価値を生み出さないところに過剰な資金と労力が集中するようなこと自体も大きな無駄でしかない。

「投機」的な経済活動を一定の範囲内に押さえてそういった無駄を最小化しつつ、かつバブル等の経済における歪みの蓄積を予防することが長期的な経済の安定には必要であるし、それを目指すべきであろう。 そもそも一時期のように「投機に手を出さない奴は馬鹿」というような言説がまかり通るような社会は筆者は願い下げである。


*今回は「投機」と「バブル」の関係が比較的わかりやすいケースを中心に説明したが、現実には資金の出し手、投機家、需要者が重なり合っており、一見「投機」なのかどうかわかりにくいケースも多い。 ついでなので次回は様々なバブルのケースについても「投機」の観点から考察してみたい。