英国中央銀行は真面目にインフレ予測をしてるのだろうか?

イギリスはインフレターゲット採用国の中でも、その目標が達成されない場合に中銀が説明責任を負うという、より厳格な仕組みを採用していることで知られている。

インフレ率が目標値から乖離した場合の明示的な罰則規定はないが、上下1%を超えて乖離した場合、BOE総裁は1.乖離した理由、2.対応策、3.目標値に回帰するのに要する期間の見込み、などを内容とする公開書簡(open letters)を大蔵大臣に提示しなければならない、とされてる。(参照:「ポストマネタリズムの金融政策」 翁邦雄著)

この公開書簡は"Inflation apology" とか「反省文」とメディア等で書かれている事もあるが、要は足元のインフレ率が目標値(CPI 2%)から乖離した場合に、乖離させてしまったことに対する釈明と、今後の対応、及び、いつごろまでには正常化するはずですという見込みを説明する責任を負っているということである。


そして現キング総裁はこの公開書簡を2010年2月から先月まで実に9回続けて提出するという前人未到の快挙?を成し遂げている。 キング総裁が過去に出し続けてきた公開書簡についてはBOEのサイトで読めるようになっているが、基本的に「一時的な要因(short run factors)によるものであり」「近いうちに自然と下がってくるはずです」を毎回繰り返しつつ、金融緩和を継続し続けてきたわけである(注1)。


では現実はどうだっただろうか? 英国に住んでいる人々(筆者も含め)にとってはその「現実」はわざわざデータで確認するまでも無いのだが、参考までに英中銀がこの間にInflation Reportに載せたインフレ率の予測と実際のインフレ率の推移をプロットしてみた。(尚、インフレ率(CPI)の変化のうち2010年Q1の上昇と2012年Q1の下落は主にVAT変更の影響によるもの)


この間のインフレ率が上昇・高止まりし続けたこと自体については、VATの引き上げやコモデティ価格の上昇等の様々な要因が挙げられるが、英中銀が予測を外し続けたことの説明としては不十分だろう。 VATの引き上げはある程度事前に分かることであるし、2010年にVATを引き上げた直後のレポートを見ても、すぐにもインフレ率は下がり始めるという予測をしている。

結局ここまで予測を外し続けたことについては想定外の事態が起きつづけたから、という説明もありえなくはないが、途中で何度も見直しの機会があったことを考えればやはりそれ以外の要因もあったのではないだろうか? この「それ以外の要因」として筆者が考えるのは、当初より高インフレが続くことを覚悟しての金融緩和であったが、上記のような形でのインフレ目標政策を採用していることから、それが公言できなかったという可能性である。 つまり他国よりも厳格だと思われていた英国のインフレ目標政策であっても結局こういった操作(悪く言えば「ごまかし」)によって本来想定されていたよりはるかに裁量的に執り行われてきたのではないかというのが筆者の印象である。 


しかしながら既に何度か書いたが、筆者はキング総裁が取っている金融政策の方向性自体はそれほど批判的には見ていない。 バブル崩壊・金融危機から生じた短期の流動性不足を埋めるには金融緩和は必要だったし、国債危機を未然に防止するために行なわざる得なかった不況下の緊縮財政の影響を和らげるためにも金融緩和は必要とされていたはずである。 問題は危機後ではなく、危機前の(バブルを引き起こした時期の)金融政策であり、危機後についてはそれほど多くの選択肢は残されていなかったとも言えるだろう。 (ちなみにこれも以前にも書いたが緊縮財政そのものについてもキング総裁は指南役と見なされており、政府と中央銀行の足並みが揃っていないという話では無い。)


ただ英中銀の金融政策を決めるMPCに対して「影のMPC」と称しているIEA(Institute of Economic Affairs)の専門家集団も再三指摘しているように、このような状態が続くことは英中銀の信任を落とすことにつながる、という面も無視できないだろう。 当面は現在の方針を貫くしかないのだろうが、それがもたらす長期的なデメリットは後日になってみないと分からない。(ちなみにこの「影のMPC」はMPCと同様に金利についての評決をとって結果を発表しているが、2011年は6回も金利引き上げの評決を行なっている。(参照:http://www.economicperspectives.co.uk/index.php?id=37))


では今後のインフレ率はどのような推移をたどるだろうか?

昨年1月のVATの引き上げの影響が足元のインフレ率の評価期間から外れたことによってインフレ率は3%代まで落ちてきており、また春から夏にかけては昨年の相次ぐ電気・ガス・交通料金の値上げ分もインフレ率の評価期間から外れる為、インフレ率が下落していく可能性は十分にある(注2)。 


しかしながら、英国民にとってより本質的な問題はインフレ率が仮に2%へと回帰していったとしても、国民の生活を覆う「物価高」感がそれで払拭されるわけでは全くないということだろう。 過去2年にわたる高インフレ率の時期に所得の上昇率を超えて高くなった物価は今後も幾分ペースを落としながらも上昇を続ける。一方で所得がそのインフレ率を超えて上昇するような局面がすぐに来るとは思われない。 もしそういった局面がくればインフレ率は上昇する方向へと圧力がかかると考えられるからである。 

過去2年間、インフレ率が高いながらも安定していたのは物価が上がる一方で所得は上がらずインフレ・スパイラルが進まなかったことが要因の一つとなっている。 これは英国経済を旧来型のスタグフレーションに落ち込むことを防いだかもしれないが、その背景となった高失業率、組合の弱体化等の要素は今後も引き続き所得の上昇を抑制し続ける可能性が高い。 英国民が「バブルの後始末がやっと終わった、」と感じられるようになるのはまだ先になりそうである。


[注1]
MPCの過去の議事録を見れば景気回復の気配があった2011年の上期頃(2-5月)には利上げ派も3名まで増え、市場もそれを予測し始めていたが、欧州の危機などに引っ張られる形で8月には利上げ派が再びゼロに、そして10月には追加の量的緩和を行なうこととなり、結局「高インフレ+不況(+金融緩和)」の状態から抜け出すことは出来なかった。


[注2]
一方で、それらの値上げの根本的な原因となっていた原油価格が再び上昇の兆しを見せており、この動向次第では再びインフレ率を押し上げることも十分に考えられる。 更にユーロ圏がとりあえずの落ち着きを見せてきていることも英国にとってはインフレ要因になりうる。 ユーロはここ1年ほどで見ればポンドに対して値を下げてきたが、このトレンドが逆転すれば輸入品の値上げに繋がり、食料を含む多くの消費財をユーロ圏から輸入している英国にとっては短期的な輸入インフレ圧力をもたらす可能性がある。 また、短期的要因としてはオリンピックでの需要もあり、英中銀が予測しているほど速やかにインフレ率が下落していくかどうかはかなり不透明だろう。