インフレを求める政府は酒を求めるアル中と同じ?(フリードマンについての補足)

かなり間があいてしまったが、いくつかコメントも頂いたので前回のエントリーに関して少々補足をしておきたい。


フリードマンと言えば最近では「インフレはいつ、いかなる場合でも貨幣現象である」という言葉ばかりが繰り返し引用されている印象がある。 これは主に「通貨量をコントロールすることでインフレをコントロールすることができる」と主張する人に引用されることが多い。 つまりリフレ派の人々が好んで引用しているわけである。


しかし一方でフリードマンは金融政策そのものについては裁量的な金融政策は結局のところ景気変動をより激しくさせるので行うべきでないという立場を明確にしていた。 こういったフリードマンの「裁量的なケインズ的総需要管理政策」に対する批判は、しかしながらほとんど取り上げられることがない。


その理由の一つはフリードマン自身がその晩年には後者の点につき立場を修正していたと考えられていることもあるのかもしれない。 確かに晩年のフリードマンはグリーンスパンによる裁量的な金融政策がマネタリズムによる非裁量的な金融政策から期待されるパフォーマンスを上回るパフォーマンスを上げていることを認めていたとされている(追記1)。


しかし筆者は、フリードマンによる「裁量的な金融政策」への批判の骨子は未だに十分有効だと考えている。

フリードマンが亡くなったのは2006年であり、まだグリーンスパン氏の金融政策が神格化されていた時代である。 しかしリーマンショック以後、「神様」は住宅ローンバブルの「戦犯」の一人とされるようにさえなった。 「裁量的な金融政策」の使い手であったグリーンスパン氏は世界経済を巻き込んだ大きな景気変動の種を残していったわけである。 

この事態をフリードマンが存命中に見ることができていたなら氏の「裁量的な金融政策」への評価がどのようなものになったかについては興味があるところではある。 (ちなみにフリードマンとの共著(「合衆国の貨幣史1867-1960」)でも有名なマネタリストであるアンナ・シュワルツ女史はバーナンキ現議長によるQE等の金融政策を強く批判している。)


一方で「k%ルール」のような通貨供給量をターゲットとした非裁量的な金融政策についてもそのままで通用しないことは明らかなように思われる。 現在では通貨供給量のインフレに対する影響力が大きく下がっていることは明らかなように思われるし、(例えば連邦準備制度を取りやめ)どのような場合にでも非裁量的な金融政策を堅持するというような手法は金融危機時等の短期的な流動性不足が問題となるような局面では弊害の方が大きくなる可能性が高いだろう。


一部のリフレ派に見られるような通貨供給量がインフレ率を決めるという点を未だに有効としつつ、裁量的な金融政策を肯定する立場とは逆に、筆者は通貨供給量のインフレに対する意味合いは低下した一方で(少なくとも過度に)裁量的な金融政策は結果として景気変動を激しくするという指摘は有効だと考えており、その為、同じフリードマンの著作からの引用でも前回引用したような部分の方が未だに有効性は高いと考えるのである。



[追記1]
フリードマンの晩年の立場については、「ポストマネタリズムの金融政策」で次のように書かれている。 結局最後まで裁量を排した金融政策こそがベストという立場は崩さなかったということであろう。

しかし、フリードマンは2003年8月19日のウォール・ストリート・ジャーナルで直近の米国の金融政策が通貨集計量ターゲティングを上回るパフォーマンスを上げていることを賞賛したうえで、通貨の流通速度はおおむね安定しており、MV=Pyという関係が自動安定化のカギであることを主張し、マネタリストとしての信念が揺るぎないことを示した。 またフリードマンはこの論考を執筆中の7月21日にネルソンにeメールを送り、「一定の通過量の伸び率を保つことで大いに満足できる物価経路が実現できるし、それで連邦準備制度をお払い箱にできるのであれば、そのことのメリットはより洗練された何らかの政策ルールによって得られるかもしれない改善の可能性を犠牲にするというコストを十分に償うもの」としている。 フリードマンは最後まで「マネタリスト」であった。