バーナンキFRB議長によるインフレターゲット採用の妙について

前回のエントリーではFRBによるインフレターゲット採用の「出口戦略」としての側面を取り上げた。 といっても昨年秋頃に報道されていたFRBによるインフレターゲット採用の可能性と、それに対する数名の理事の意見をまとめた記事(参照「FRBにインフレターゲット支持広がる、出口戦略にらみ」)と今回の発表内容を繋げた(というか並べた)だけであり、別に何か独創的な見方を付け加えたというわけではない。


バーナンキ議長の思惑は別として、これらの理事についてはその後に大きく意見を変えていない限り、インフレターゲットを一種の「出口戦略」と認識していたのは確かであり、そういった意味でハト派、タカ派双方が混在するFOMCにおいて今回の判断が下されたのは、インフレターゲットが長期的なインフレ期待を安定させるという目的に加え、現状の「異例な金融緩和」の弊害を押さえ、かつ将来的に引き締めに移るときの障害を少しでも抑える意図が含まれている(少なくとも一部の理事にとっては)と考えても間違いでは無いはずである。


この件について別の面から考察を付け加えれば、バーナンキ議長は従来の持論であったインフレターゲットの採用を絶妙な水準、タイミング、バランスで繰り出したという事が言えるだろう。


2%という水準についてはPCEなのかコアPCEなのかで若干数字は変わるが、基本的には近年の実績の平均と同程度の設定であり、かつ足元の水準ともほぼ同じである。 公表されたかどうかの違いはあるものの、これまでInformalに目標とされていると考えられてきた水準とも大きな乖離はない。 又、今回の発表が株価や為替に大きな影響を与えなかったことからも分かるとおり、インフレターゲットの公表によってFRBの今後の金融緩和の程度に対する市場の予想が大きく変わるようなことはなかった訳で、非常に円滑に制度が変更されたことになるだろう。


これがクルーグマンやその他のリフレ派が主張するような4-5%の水準へのインフレターゲット設定であったならリフレ派は喜ぶだろうし、株価は急伸する一方で為替はドル安へと振れた可能性が高かったと思うが、そうなればタカ派は黙っていないだろうし、足元の高めのインフレに直面している国民からも反発があっただろう。 しかし、米国経済は遅いペースではあるが改善してきており、景気回復局面でのインフレならまあ現状くらいなら許容範囲かな、というのが一つの国民の評価ではないだろうか? (もちろん現状のインフレでも高すぎるという声が一部で強いのは事実であるが)

逆にこれが景気・雇用に改善の兆しが見えない中での現状水準へのインフレターゲットの設定なら、ハト派からの反発は強かっただろう。 いくら説明で取り繕ったとしてもFRBの二つの責務(物価・雇用)のうち、一方により明示的な目標を設定するということは、雇用に対する責務を相対的に軽く見ることにつながるという見方もあるわけで、物価は目標を達成しているが雇用が最悪という中でさらに物価の目標を明示するような施策はとりづらかったはずである。


しかし、今回、とりあえず足元の景気は回復局面にあり、雇用も僅かずつであるが回復しかけている。 そしてインフレ率も既に過去の平時(好況時)のインフレ率に近い水準となっており、ハト派、タカ派共に緊急対応的な政策ではなく、より長期的な政策に目を向けられる状況が整ってきている。 ここに絶妙な水準、タイミングでインフレターゲットを持ってくるのは必ずしもインフレターゲットを支持するわけでは無い筆者の目から見ても非常に納得感の高い施策ではある。 


又、雇用に対してはインフレ程明示的な目標を設定することは避けながらも、雇用の情勢次第ではインフレ目標が達成される時期が遅れる(つまり実現インフレがインフレ目標から乖離した期間が継続する)こともやむなしとするというポジションを明確にしつつ、更には経済情勢を考慮しつつ毎年一月に(政府ではなく)FRBが「適切に調整する」という点もバランスの取れた内容になっているように見える。


念の為に書いておけば、今回のインフレターゲット採用の目的(思惑)の一つが一種の「出口戦略」だとしても、別にFRBがすぐに引き締めに動くというわけでは無い事は今回の声明文を見れば明らかである。 インフレ率は既に目標水準を超える(或いは非常に近い)所まで上がっている一方で、景気回復は必ずしも頑健なものとは言えず、雇用については依然FRBが考える適正水準を大幅に上回っており、欧州の状況等も考えればすぐに出口へ向かえるタイミングではない。 

よって今後の目標とする展開は、現在の「異例の金融緩和」の継続によって長期金利を押し下げて景気・雇用を下支えし続けると共に、長期的には2%のインフレターゲットを達成するというコミットメントによってインフレ・金利の上昇を抑制し、景気回復局面での(金融緩和+低インフレ)という状況を維持することだろう。 (*通常なら景気回復局面でそれまで通りの金融緩和を続ければインフレ率はどんどん上昇していくはず)


これが狙い通りに上手くいくなら、それは見事な手腕と言えるだろう。 また今回発表された米国版インフレターゲットも従来のタイプのハードなインフレターゲットと比べると幾つかのデメリットは緩和されているようにも感じる。 しかしながらインフレターゲットのデメリットとされている部分が全てクリアされたわけでは無い。 


まず仮に雇用が改善しない中でインフレ率が明らかに目標を上回った場合の対応が一つのネックになる可能性はある。 もちろん雇用が改善しないのなら長期的には景気の停滞・後退が見込まれていることになり、その場合は長期的にはインフレが下落していくという予測となるだろう。 つまり足元のインフレ率が目標を大きく上回っていても将来的なインフレ期待は目標を下回るという状況になる。 

この場合の対応策は足元のインフレ率には左右されずに長期的な景気・雇用動向を重視して金融緩和を継続する、という事になると思うが、明示的にインフレ目標を掲げているだけにタカ派(或いは国民)からの反発は強くなるだろう。 金融政策の判断の肝となるのは足元の実現インフレ率ではなく長期的なインフレ期待であると主張し、その主張が一定の理解を得たとしても実際に国民が日々の生活で実感するのは実現インフレ率であるから、もしそれが目標を大きく上回ることになれば少なくとも現在の高インフレ率をもたらした過去の中銀の金融政策に対する非難(インフレの上振れリスクを過小評価していたのではないか等)は避けられない。 そういった中銀への(或いはインフレターゲットへの)不信は、インフレターゲットの効果・メリットを損なうことにも繋がる。 要は現在の英国の同じ状況になる可能性があるという事になる。


その他の懸念としてはインフレ目標を毎年1月に見直すとしている点があげられる。 これは目標設定の柔軟性というメリットがあり、従来の(ハードな)インフレターゲットのデメリットを緩和することは確かであるが、そもそもインフレ目標を明示的に示すのは柔軟性(或いは裁量性)を犠牲にすることによってより強く「長期的なインフレ期待」を抑制することにその目的の一部があったのではなかったのだろうか? 

つまりインフレターゲットの目的の一つは、バーナンキ議長の「時間の経過とともに、インフレ率が上昇すれば、一段と長期的な経済・金融に関する決定を正確に行う国民の能力は低下する。」という発言にもある通り、将来的にインフレが進んでいくという懸念を払拭する点にあるはずであるが、毎年見直されるのであれば、この懸念は完全には払拭されないのではないのだろうか?という疑問である。 今年の「長期的な」インフレターゲットが2%なのに、来年には3%、再来年には4%となってしまう可能性があるなら、それは人々の長期的なインフレ期待をどこまで抑制できるのだろうか?


より長期的な問題として過去15年の平均程度に設定されたインフレターゲットで、その過去15年の間に実際に発生した問題、特にバブル、を将来的に防ぎえるのかという点も懸念される。 白川日銀総裁が講演等で何度も指摘しているように近年のバブルの多くは低インフレ下で進行している。 リフレと同時にインフレターゲットを採用すればバブルは防げるという主張もあるが、実際にインタゲ採用国である英国でもバブルは発生しており、少なくとも十分条件とは言いがたい。 金融政策以外の対策でバブルを防げば良いと言う考え方もありうるが、今回のバブル崩壊後に有効な対策が打たれた気配はないし、「バブルは毎回違う顔をしてやってくる」わけで対処療法的な対策が効果を挙げられるかどうかは不明である。 そして今回の世界的な経済危機の発端となった米国の資産バブルについて言えば、バーナンキ議長はその進行期間にわたってFOMCの理事として金融政策の策定に携わっていた訳で、バブルの事後処理能力についてはともかく、その事前察知能力に優れているとは評価しがたい。 


ただ、いずれにしろは投げられたわけであり、特に今年は欧州の財政問題に加え、イラン、中国等世界経済の不確実性は高まっており、米国経済の回復への期待・ウェイトがますます高まる年になるのは間違いなく、良いの目が出ることを祈りたいところである。