イギリスはスタグフレーションに突入するのか?

英中銀の金融政策委員会の委員であり、只一人量的緩和再開を主張し続けているポーゼン氏が、イギリスの現状は1970年代と大きく違うため金融緩和を続けても現在のインフレがスタグフレーション化する恐れは低い、むしろここで金融引き締めに転じることこそが経済を毀損し、過去の過ちを繰り返すことである、という趣旨の講演をしたようである。(参照:Not That ‘70’s Show: Why Stagflation is Unlikely


確かに英国政府/中銀が今の姿勢を取り続ける限り、インフレをコントロールできなくなって過去のスタグフレーション時に見られたような非常に高いインフレ率へと突入することは無いだろう。

数字のみを見ればイギリスのインフレ率は自らがターゲットとして明示していたレンジを長らく超え続けているが、これはコントロールを失っている訳ではなく、目先のインフレ率を過剰に重要視することによって長期的な経済の安定を毀損させるリスクを考えて、あえて引き締めに転じないだけであり、方向性は逆であるが、日銀が取ってきた姿勢と同じである。(但し英国の場合は目指すべきインフレ率を明示的に掲げており、その為「言いたいことはわかるがだったらインフレターゲットはフィクションだったのか?」という批判を受ける事になっている。)もし本当にインフレがスパイラル化する可能性が出てくれば英中銀は金融引き締めに転じるだろうし、成功する可能性は高い。


しかし、一方で以前にも書いたとおり、現状の英国の景気に対しては英国政府並びに英中銀が打てる手段は非常に限られている。 

既に国民が感じているインフレ感は十分に高い。一方で金利は下限に近く、再度の量的緩和も支持を得られそうにない。政府が緊縮財政を諦めて財政政策で景気刺激に乗り出す余地はゼロでは無いが、その場合は通貨安も誘導して、更なるインフレを引き起こすことになるし、最悪の場合、インフレのコントロールを本当に失ってしまう可能性すらある。(投機筋に目をつけられて国債金利が急上昇する可能性もある。)

結局、英国政府、英中銀にとっては現実的には今の路線を維持し続けるしかないわけである。


ではその場合、英国経済は今後どうなるだろうか?


現時点で高止まりを続けている失業率を短期的に大きく下げるような手段は残されていない。通貨安により恩恵を受けている産業もあるが、英国経済全体を牽引するほどの力強さは感じられない。よって失業率の本格的な改善には国内外の景気の自律回復を待つしかないが、それがいつになるかを評価することは難しい。ユーロ圏はPIIGS問題を抱えており、米国の景気回復の足取りも重い。期待の新興国は先進国の金融緩和の影響を受けて高インフレ・バブルが問題となりつつあり、先行きは不透明である。これらの問題はいずれも短期的な解決は難しいと見られている。


一方で英国のインフレ率の方は一過性という見方もあるが、これも必ずしもそうとは言えないのではないか。

例えばポンド安によるインフレ圧力が一過性のものであるという見方もあるが、本当だろうか? 2007年以降のポンド/ユーロ為替を見れば、ポンドはユーロに対して約25 %程価値を切り下げているが、その後の数年間で英国の消費者価格や賃金が25%上昇した訳では無い。通貨安の結果としてのエネルギーや食料等の価格の上昇は比較的すぐに顕在化するが、その他の製品価格や賃金が通貨安によって目減りした分を取り戻すには時間が必要になる。ポンドが上昇すればよいが、ユーロが金利を引き上げている一方で、英国は据え置いたままなので当面ポンド高となる見込みは薄いだろう。よってポンド安によって割安になった英国内の製品、賃金価格が(実質で)元に戻るにはまだ数年単位でかかる可能性が高い。


つまり失業率もインフレ率も足元での急激な悪化はないものの、両方とも高止まりしたまま景気の自律的な(そして緩慢な)回復をじっと待つしかない事になるわけである。


これは確かに1970年代に経験したインフレのスパイラル化が起こるようなスタグフレーションでは無い。その意味ではポーゼン氏の主張は正しいと思う。しかし、1970年代のようなスタグフレーションが繰り返されることはないとしても、高失業率とインフレが長期にわたって共存するわけであるから、これは新タイプのスタグフレーション(或いはインフレ不況)と言ってもよいのではないだろうか?


もっとも上記は最悪のシナリオでは無い。英国の対外債務は依然GDPの400%に近く、しかもPIIGS諸国に相当貸し込んでおり、ユーロ圏でないからといって対岸の火事といえる状況では無い。又、イギリスの対外純債務はポンド高になると重くなるので、PIIGS諸国が連鎖破綻でユーロが大きく下がった場合、英国への影響は2重に大きくなる。こうなった場合は、そもそも世界不況第2幕の幕開けとなってしまうが、現状を考えると英国が被る影響は他国と比べても甚大なものになる可能性が高い。前回の金融危機時には金融機関の救済にかかった膨大な資金をリフレ的政策(国債発行+中銀引き受け)で調達して凌いだが、そう何度も繰り返せるものではないだろう。既に国債残高は前回の量的緩和で膨れ上がっており、これ以上の積み増しは本当のスタグフレーションを招きかねないはずである。


英国としてはPIIGS問題をなんとかドイツ・フランスが片をつけてくれて、あわよくば米国・ユーロが景気が急回復し、それに牽引してもらって自国の景気が回復するのを待つしかないように見える。 それがうまくいかなければインフレ不況、或いは本格的なスタグフレーションに突入することになる恐れが強いように見えるが、そのとき英国政府、中銀に更なる奥の手は残されているのだろうか?


[追記]
ちなみに筆者の理解では、英国の現状は日本が体験したデフレ不況の裏返しのイメージである。

日本のデフレも過去のデフレのようにデフレがスパイラル化したわけでもなく、失業率も底なしに下がっていった訳でもなかった。

つまり長期的な経済の安定を考えたときに、今の英国が「過去のインフレ時の例に照らせばスタグフレーション化する心配はないのだから金融を引き締める必要はない」状態だとすれば、当時の日本も、「過去のデフレの例に照らせばデフレスパイラル化する心配はないのだから金融をこれ以上緩和する必要はない」状態であったとも言える。

違いがあるとすればインフレの方が賃金の調整が行われやすい、或いは通貨安になりやすいという(企業にとっての)メリットがある反面、信用膨張によるバブルが発生しやすいというリスクがあるということだろう。又、量的緩和と言う切り札をさっさと切ってしまうことにより、状況が更に悪くなったときのための非常手段が限られてしまうというデメリットもある。

英国は日本を反面教師として積極的な金融緩和を行ったとしているが、それが功を奏するかどうかはよくて未だ実証試験段階ということになるだろう。