原発の経済合理性はゼロ?

東洋経済オンラインに6月21日付で 「原発「安価」神話のウソ、強弁と楽観で作り上げた虚構、今や経済合理性はゼロ」という記事が掲載されており、その中では福島の事故以来一部の人間が主張してきた「原発の発電コストは本当は火力よりも高く、そもそも経済合理性はなかった」という説が主張されている。

この記事では独自に原発の発電コストを算定し、それが政府の公式試算より(そして過去の同期間における火力の発電コストより)高い事を示した上で、原発が安価なエネルギー源であるというのは虚構であり、今や経済合理性はゼロであるという主張を展開している。


この記事内で行われている原発の発電コストの独自評価については、揚水発電のコストを合算してみたり、公式試算に含まれているバックエンドのコスト(廃棄物の再利用や整備にかかるコスト)を幾つかの根拠と類推によって積み増していったり、立地に関連して政府が出した補助金等も算入したりして算出されており、特にバックエンドコストの膨らませ方については恣意的に大きな数字にしているとしか思えないような部分もあるし、割引現在価値にもなっていなさそうであり、どれほど意味のある推測値なのか疑問に感じる部分も多々ある。


しかし、仮にこの記事にある原発の発電コストの独自算定が正しかったとし、それが同期間おける火力の発電コストより実際に高かったとしても、だから経済合理性はなかったし、いますぐやめるべきだ、というのはやはり目先の経済合理性しか考えていない議論ではないかというのが筆者の考えである。


まず、過去の比較について考えてみる。

ここで原発の発電コストと直接の比較対象となっているのは火力の発電コストであるが、そのかなりの部分は化石燃料(石油、天然ガス、石炭)のコストである。 もし火力発電の方が経済合理性があるといって最初から世界的に全く原子力発電が推進されていなかったとすれば、今現在の化石燃料の価格は幾らになっていただろうか? 

化石燃料の需要の増加はその価格に対する上昇圧力となるし、世界全体でみた資源の残存年数も減っていただろう。つまり原子力発電が世界的に一定の割合を占めている状況下での現在のコストを単純に比較しても意味が無いという事になる。 又、現在の化石燃料の価格ですら、昨年BPが大事故を起こしたような大水深域における石油の開発やアフリカ内陸部での新たな油田地帯の発見や米国を中心とするシェールガスの開発促進等の事前に十分に想定されていたとは言えない技術革新や発見によって支えられている部分が大きい事にも留意が必要である。

その上、そういった事を考えない単純な比較ですら、上記の独自試算による発電コストの積み増し部分の多くはバックエンドコストであり、実際に電力コストとして使用者が負担してきたものではないし、その積み増したバックエンドコストを加えた原発の発電コストにしても化石燃料の値段が今後もどんどん上がっていけば数年内には火力発電のコストを下回ってもおかしくない水準であり、この記事が書いているほど話は単純ではない。


本当に過去の実績を基に経済性で両者を比較するなら、世界全体で見た時に、原子力エネルギーを使わなかった場合に、過去数十年間にどれだけの経済活動が阻害されていたか、ということを考える必要があるはずであり、単に現時点のコストを比較して経済合理性が無かったと言うのは結果論以前の為にする議論に過ぎない。


その上で、今後どうすべきかという点を考える場合、原子力の使用を止めて当面は(火力+各種の再生可能エネルギー)に切り替えるとしても、長期的に再生可能エネルギーが人類が必要とする全エネルギーを代替できるという目処は全く立っていないし、短期的にも原子力によって発電していた分すら再生可能エネルギーで代替できるかどうかは分からない、という点から議論を進める必要がある。

そのような状況下で宇宙太陽光等の現時点で実用化の目処が立っていないような技術の可能性に掛けて、原子力発電をやめて化石燃料に切り替えれば、当然化石燃料の価格は上がるし、最悪の場合、枯渇するまでに次の主力エネルギーの目処が立たない可能性だってある。 


もちろんウランも有限の資源である。しかし原子力発電を行うことにより電力源を多様化すれば、化石資源枯渇の X Dayを伸ばすことはできる。核燃料サイクルのようなアイデアも完全に可能性がなくなったわけではない。(そしてこのX Dayまでの間に、割高なエネルギーによって失われる経済発展は、特に経済的に脆弱な発展途上国に集中するのではないかという危惧については前回のエントリーで書いたとおりである。)


一応誤解の無いように書いておくが、筆者は経済合理性の観点から原発を推進すべきという事を主張しているわけではない。 ここで述べたかったのは単にコストの比較をベースとしたような「経済合理性」の観点は、エネルギー問題のような人類が本当に長期的な視野で考えなければならない分野では、(たとえそれが長期的な処理費用などを含んでいたとしても)やはり目先の経済合理性に過ぎないだろうと言うことである。


原発の推進・反対については様々な立場・イデオロギーからの議論が錯綜し、それぞれのプロパガンダ的な言説が入り混じって混沌とした状態が長く続いてきた。その中、今回の福島の事故では、少なくとも原発推進派の唱えてきた絶対的な「安全神話」は崩壊したし、賠償金を考えると民間事業としての「経済合理性」も甚だ怪しいものとなったと言わざる得ない。 一方で、事故が起きたからと言って一足飛びに再生可能エネルギーで原子力発電を代替できるようになるわけではない。太陽光発電が注目を浴びているようであるが、他国の例を見る限り大幅な技術革新が無ければ抜本的な解決策となる可能性は低そうである。


結局の所、最大の問題は現在の世界のエネルギー消費状況が長期的に持続可能なレベルをはるかに上回っているという点にある。既存の技術の単純な延長線上にその解決策があるかどうかは疑問であり、それがいつ達成されるかも分からない。そのような状況下では、何らかの抜本的な解決策を得るまでは手持ちのカードで凌いでいかざる得ないのであり、原子力は目先の経済合理性で捨てるには惜しいカードであるというのが本問題に関する筆者の考えである。


(追記)
ちなみに抜本的な解決策を得るまでの凌ぎ方としては

  • 残り少ない貴重な化石燃料の価格を上昇させて、主に貧乏人、貧乏国の消費を抑制させ、その間に技術革新が起こることを期待。 
  • 技術革新がなかなか成し遂げられなければ、ますます化石燃料の価格を上昇させて更に消費を抑制させて延命し、技術革新が起こることを期待。
  • どうしても技術革新が成し遂げられなければ、高価な再生エネルギーが使用可能な国だけが、今と変わらない水準の生活をなんとか維持し、それ以外の国の生活水準は大きく低下する。

という形になるのではないだろうか? この流れは原発を継続・推進しても方向としては変わらないだろうが、上記の歯車が回るのを若干は遅らせる効果があるはずである。
(「させて」と書いているが、もちろん結果としてそうなると言うことで、「誰か」がさせるのではない。為念)


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