リフレ論における「事実」と「解釈」

先日のエントリーではリフレを巡る議論では「理論」と「仮説」を混同した主張が多く見られ、かえって議論を阻害しているのではないかという事を書いたが、それ以前に「事実」と「解釈」を混在させているケースも多く見られるように感じる。


以下はリフレ派の田中秀臣教授のブログからの引用である。

リーマンショック後、世界中の先進国がバランスシートの急激な拡大をしていたのに、日本銀行は「もとから規模が大きいので特に増やす必要はない」と言い切った。そのため他国にくらべて猛烈に景気・雇用が悪くなり、また円高が急激に進んだ。

http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20110507#p2


ここでいう「そのため」とは「日本が量的緩和をしなかったため」という事だろうが、そこに因果関係が本当に存在するのかについてはこの記事では全くふれられていない。 リフレ派的には「言うまでも無い」ということかもしれないが、先日のエントリーでも述べたようにそのような因果関係は把握も証明も困難である。 

しかし今回の問題はそこではなく、後段の「他国に比べて猛烈に景気・雇用が悪くなり」という部分である。 文脈から考え、田中教授はこのことを「事実」と認識されているようだが、この「事実」は本当に「事実」だろうか?


量的緩和を行った英米と行わなかった日本のリーマンショック後の失業率とインフレ率の推移を示した図を以下に示す。 この図から「日本だけが量的緩和を行わなかったために雇用が猛烈に悪化した」という「事実」は読み取れるだろうか?


失業率を見れば、猛烈に悪化したのは英米であり、米国は若干回復しかけているもののその割合はリーマンショック後の失業率増加分の2割程度であり、英国は殆ど回復していない。一方で日本は失業率の増加自体が相対的に低い上、2011年3月には悪化分の5割以上を回復している。

失業率の数字に表れない「雇用」が存在し、それが他国と比べて猛烈に悪化しているのだ!という主張も有りうるかもしれないが、それは「事実」というよりは良くて「解釈」、悪く言えば「主観」、更に悪く言えば「印象操作」の域を出ていないものだろう。


念の為書いておくと、上記の図は「量的緩和を行ったから雇用が回復しなかった」という事は全く示していない。


リーマンショック後に「英米は量的緩和を行い、その後インフレ率は上がったが、失業率はなかなか回復してきていない」事と「日本は量的緩和を行わず、デフレ状態にもなったが、英米よりも失業率の増加は最初から低く、その後の回復率も(相対的には)高い」事が数字として示されているだけである。


そしてこれらの事実からそれなりの確かさで言えそうな事は

  • 日本が量的緩和を行わなかったことによって量的緩和を行った他国より猛烈に雇用が悪化したというような「事実」は無い。(少なくとも誰の目からも明らかな一般的な事実としては存在しない)

ということであり、あえてもう一点付け足すなら

  • インフレ誘導に成功した英米とデフレ状態に陥った日本の失業率の推移の比較を見る限り、インフレ・デフレの差が雇用に対して直ちに致命的な影響を持つわけでは無い

ということではないか。


この図に対する「解釈」は色々と可能(そもそも英米の方が実体経済に対するダメージが大きかった、リーマンショック時点で日本は既に不況だった等)だろうし、その中ではリフレ派の従来の主張と矛盾しないものもあるかもしれない。 

但しいずれにせよ「リーマンショック後に日本が他国に比べて猛烈に雇用が悪化した」事実があるとして、さらにその原因を「量的緩和をしなかったこと」と断定する田中教授の「理論」が正しいかどうかを検証するには、まずその説明対象となる「事実」が正しいのかどうか検証する必要があるだろう。


追記)
似ているようで少し違う「事実」には以下のようなタイプもある

 どうすれば円高とデフレを終わらせることができるかは、米連邦準備理事会(FRB)が見事な処方箋を示してくれた。ゼロ金利でも効かない時には量的金融緩和を続ければいいのである。
 2010年末からのQE2(量的金融緩和第2弾)によりFRBのバランスシートは大きく増加し、株高とドル安が米国のデフレ圧力を著しく減殺した。


 日銀もFRBに追従する姿勢を見せている。白川方明日銀総裁は「必要な場合には適切な措置を講じる」と語り、西村清彦副総裁は量的緩和の拡大(資産買い取りを10兆円から15兆円に増額)を提案した(4月28日政策決定会合で)。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/7167?page=2


実際に起こったことは日銀が震災直後から金融市場に積極的な資金供給を行うと共に、リスク性資産を中心とした資産買入基金を5兆円増額したということであり、「日銀もFRBに追従する姿勢を見せている」という点は単なる著者の解釈(もしくは印象操作)に過ぎない。

日銀は従来より今回のような短期的に流動性が問題となる時には必要なだけ流動性を供給すると言うことを述べており、今回の措置もその原則に沿って対応されたという「解釈」の方が筆者には「事実」に近いように思われるがどうだろうか?