日銀のバランスシートが毀損するとどうなる?? (松尾匡教授の「思考実験」について 2)

前回取り上げさせて頂いた松尾教授の思考実験について、松尾教授ご本人からご指摘を頂き、またエッセイでも取り上げていただいた。


最初に当方の誤解を指摘いただいた部分について書いておくと、前回取り上げた思考実験は、日銀のバランスシートが毀損しても、しなくてもインフレが悪化する時には悪化するのだから日銀のバランスシートが悪化するかどうかは問題ではないということの背理法を用いた指摘であったということで、その部分は筆者が読み違えていたようである。 (唯、背理法になっていないような気もするのだが、、)

一方で当方がコメントした、日銀のバランスシートが毀損しなくてもインフレは悪化しうるという事実は、日銀のバランスシートが毀損すればインフレは悪化するという懸念への反証になっていないのではないかという点については、趣旨はご理解いただけたようで、新たに以下のような思考実験を提示していただいた。

 「日銀のバランスシートが毀損しなくてもインフレは悪化する」と言えたからといって、「日銀のバランスシートが毀損してもインフレは悪化しない」ということにはならない。だから、両者が関係ないことの論証がなされたわけではないというわけです。


 ではそれならというわけで、別の思考実験を考えてみました。


 この仮想世界では、日銀はもっぱらドルを買い入れることで円を出しているものとしましょう。

 あるとき、現実世界と同じくサブプライム問題が起こってリーマン破綻恐慌が始まったとします。そこでバーナンキさんはじめFedの面々はショックのあまり、「アジャパー、タリタリラーン」と叫んで裸踊りを始め、「いくらでもドルをだすじょー、国債でもケチャップでもどんどん持ってこい」と言ったとします。オバマ大統領も大喜びで、国債を引き受けさせて、全国民に毎月1万ドルを給付をすることを発表しました。
 そうしたら、ただでさえ、現実世界と同様、日本への資本逃避で円高になっていたところへもってきて、ドルがさらに下落して円高に歯止めがなくなります。
 ここでなんと白川さん、普通とは逆の対応をしたとします。
 つまり、日銀が手持ちのドルを売って円を買い、円高をますます促進する対応を続けたとします。さあ、どうなるでしょうか。

 日銀のバランスシートは縮小しつづけるのですが、資産側と負債側を比べてみたら、資産側のドルの円価値は、負債側の日銀の出した円の金額に比べてどんどんと下がっていきます。つまり、日銀のバランスシートがどんどん毀損していくということです。
 そしたらさぞかしひどいインフレになるということになりませんか。

 実際にはそんなことになるはずがない。円高で輸出が減って不況になり、輸入品価格が下がって怒濤の流入をしてくるだけでなく、世の中に出回るおカネの量が減らされていくわけですから、インフレどころか大デフレになることは明白です。


「日銀のバランスシートが毀損してデフレになる思考実験」
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__110429.html


筆者の理解するところでは今回の思考実験で示唆されているのは「日銀のバランスシートが毀損し、かつデフレになるケースも存在する」と言うことである。


つまり松雄教授は「日銀のバランスシートが毀損すればインフレは悪化する」という理屈への批判として、2種類の思考実験を通じて

思考実験1:「日銀のバランスシートが毀損しなくてもインフレが悪化するケースが存在する」
思考実験2:「日銀のバランスシートが毀損し、かつデフレになるケースも存在する」

の二つの論証をされたことになる(多分)。


この内、思考実験1は日銀のバランスシートの毀損がインフレ悪化の”唯一の”原因では無いと言う事を示しているが、逆に言えばそれ以上の事は示唆していない。


そして今回の思考実験2は確かに「日銀のバランスシートが毀損すれば”必ず”インフレになる」という理屈に対しての反証になっているが、そもそも本来反証すべきは

「現状で国債の日銀引き受けを行って日銀のバランスシートが毀損すればインフレが悪化する(のではないかという問題意識)」

であり、松尾教授の思考実験のように特定の条件下では逆のことが起こりうるということを示しても、やはり問題意識は払拭されないように思われる。 唯一の原因でなく、しかも常に結果が同じではないとしても、悪い結果が出ないということの証明にはならないからである。


恐らく教授が指摘したいのは、日銀のバランスシートの毀損があろうが無かろうがインフレになる時はなるし、しかも毀損があってもデフレになるケースも存在するのだからバランスシートの毀損は問題の本質ではない、ということだと思われるが、再度タバコの例を出すと、タバコを吸っていようがいまいが肺がんになる人は居るし、タバコを吸っていても長生きする人も居ると言われてもやはりタバコの害が無いことにはならない訳で、タバコの害について懸念している人を説得するには不十分であろう。


ここで、筆者も一つ思考実験を提示してみたい。 


もし日銀が債権を買って貨幣を市場に供給し、インフレにはなったものの債権の価値が大きく毀損した場合、一体何が起きるだろうか?

インフレが悪化すれば当然日銀は金融引き締めを行うわけであるが、そのときに日銀のバランスシートが大きく毀損していれば日銀が引き締めを行おうとしてもその能力は制限される。 極端な話、買い入れた債権がすべて紙くずになっていれば、その紙くずを売って市場から貨幣を回収することは不可能になる(注1)。 

そうなるとインフレ抑制のために市場から貨幣を回収する為の手段は非常に限られてくる。 有力な手段としては増税がありうるが、増税は景気を悪化させる。 インフレになった時点で景気が回復していればこの手段をとることは比較的容易かもしれないが、景気が停滞したままインフレになっていれば、この手段はますます景気を悪化させ、スタグフレーションへと落ち込むリスクを増大させる。 同様のことは政策金利の引き上げにも言える。 つまり日銀のバランスシートが大きく毀損した状態で景気が停滞したままインフレになった場合、政府・日銀の取れる手段は殆ど無いことになる。

よって日銀のバランスシートの毀損が問題となるのは、それがインフレを引き起こすからではなく、インフレ抑止能力を制限するからであり、一旦インフレになったときにそれが悪化するのを食い止められないのではないかという疑念を人々に抱かせるからであるというのが筆者の理解である。


そしてこれが国債の直接引き受けで特に問題となるのは

「国債の日銀引き受け → 財政規律への懸念 → 長期金利上昇 → 日銀のバランスシート毀損 → インフレ悪化」

のように、国債の日銀引き受けが人々の「懸念」を経由してバランスシート毀損が起こり、悪性インフレにつながるルートが非常に想像しやすいからである。 

国債の日銀引き受けが「財政規律への懸念」、「長期金利上昇への懸念」を引き起こし、その懸念がバランスシートの毀損を起こすと同時に悪性インフレを引き起こすわけである。(そしてバランスシートが毀損すればインフレ抑制が困難になるという懸念がさらにこの悪循環を加速させる)


これを防ぐには国債の日銀引き受けが行われても財政規律が守られるという信認が必要であるが、そのような信認を得る為には財政再建へのしっかりとした道筋をつけることが不可欠となる。この場合、「がんがん貨幣を刷れば景気が良くなって税金もそのうち増えるから大丈夫」みたいな話で十分に信認が得られると信じるのはその政策を支持する一部の人間だけである(それが事実であろうと無かろうと)。
 

今、金融緩和を続けてきた世界各国で財政再建が一つのテーマになりつつあるのも、金融緩和、国債増発が限界に達しているのではないかという懸念が市場に生まれてきているからであり、金融政策の最前線にいる政府・中銀の首脳はその気配を感じ、恐れ、手遅れになる前に何とかしようとしているのだと筆者は理解しているし、日本だけがその流れに逆らって自ら信認を落とすような政策(国債の直接引き受け)を行うことは非常にリスクが高く、リターンに見合わない政策であるはずである。


注1) 実際には紙くずになった債権を売ろうが売るまいが日銀が債務超過になった時点で政府が補填する必要が生じ、その補填を国債でやればますます財政危機が悪化してインフレになるし、増税でやれば景気が悪化するということになる。