サムナーの名目GDP目標がおそらく機能しない理由

先日のエントリーのコメント欄でerickqchan様とサムナーの名目GDP目標政策に関連する議論をさせていただいたのだが、コメ欄では十分に書ききれなかった筆者の同政策に対する根本的な疑念をまとめてみた。


サムナーの名目GDP目標政策はインフレターゲットの進化版?のようなもので、中央銀行が名目GDP(成長率)をターゲットとして金融政策をとれば、景気の変動を最小化し、安定的な経済成長を達成できると言う仮説である。 (詳細についてはサイト「道草」にerickqchan様によるサムナーのブログの主要なエントリーの翻訳があるので、そちらをご参照ください。)


名目GDP成長率は「実質GDP成長率+インフレ率」で表されるため、この政策を採用した場合は実質GDP成長率が下がったときにはインフレ率を上げ、実質GDP成長率が上がったときにはインフレ率を下げるということになる。

この政策には確かにインフレターゲットの問題点を克服する仕組みがいくつか見られ、非常に興味深い議論ではあるが、筆者はこの政策には根本的な問題点があるように感じている。
 

それは一言で言えば「不況が常にインフレとセットでやってくる社会で、人々は安心して暮らせるのか?」という疑問である。


筆者は人々は将来の不確実性が高まるほど貯蓄を増やす(=消費を抑制する)ようになると理解しているが、サムナーの世界では不況は常にインフレとセットでやってくる訳であり、不況の到来が懸念される時にはこれまで以上に貯蓄選好が高まる可能性が高い。


もちろん名目GDP目標が正しいと言う観点に立てば消費の抑制を打ち消すだけの通貨供給を行えばよいのかもしれないが、仮に貯蓄選好が更なる実質GDP成長率の低下をもたらした場合、


不況に対する不安→貯蓄選好の上昇→実質GDP成長率の低下→名目GDP目標維持政策→インフレ率の上昇→貯蓄選好の上昇→実質GDP成長率の低下→→→


という悪循環に陥る可能性がある。 


そうなると投資についても問題が出てくる。 名目GDP目標政策をとった場合、確かに名目GDP成長率を維持することによって不況期に実質金利をより下げることが可能になり、投資を促進する可能性があるが、投資する人間の目から見れば事態はそう単純ではない。


通常であれば投資家が不況時に近い将来の景気の回復を予測した場合、それはインフレの上昇、つまり実質金利の下落を同時に予測することになるわけであり、投資判断は後押しされる。 そして景気の回復を予測する投資家が一定以上増えれば自律的に景気も回復していく。

しかしサムナーの世界ではある投資家が近い将来の消費の回復を予測した場合、その投資家は同時にインフレの低下も予測することになる。そしてそれは実質金利の上昇を予測することでもある。これは投資判断に対してはネガティブな材料になるはずである。逆に景気の悪化を予測する投資家にとっては実質金利は下落することになるが、この投資家は需要の増加を予測しておらず、やはり投資に対してはネガティブなはずである。


これらの悪循環に陥るのを避けるためには名目GDP目標政策が安定した経済成長をもたらすと言う「期待」が必要となる。 逆に言えばその「期待」があれば仮に不況に陥りそうになったとしても名目GDP目標政策によって不況がすぐに克服されると多くの人間が信じる為、実際に不況も深刻化せずにすむ事になる。


ただ、名目GDP目標政策は結局のところ現状では単なる仮説、悪く言えば「机上の空論」にすぎず、もしどこかの政府がそれを実行に移したとしても最初からそこまでの信頼を国民から得ることは難しいだろう。

そのような状態でこの政策によって不況とインフレが同時に来ることが認識されれば、上記の低実質成長率・高インフレへの悪循環に陥る可能性があり、どこかの国でこの悪循環が一度でも実現すれば、他の国でも同様の悪循環が発生する可能性が更に高まることになる。


つまり「期待」が重要な意味を持つような政策は、導入段階でその政策に対する「信頼」が無くても機能するものでなければならないはずであり、その意味では名目GDP目標政策は理論としては正しいように見えても、現実社会で機能させる難しいだろうというのが筆者の理解である。 


もう一点定性的な考察を付け加えるなら、筆者は市場原理主義ではなく、むしろどちらかと言えば経済左派よりの立場であるが、市場メカニズムの持つ短中期的な均衡をもたらす力は非常に強力かつ重要だと考えている。 名目GDP目標は市場メカニズムが導く均衡、つまり不況・低インフレー好況・高インフレに真っ向から対立しており、あえて言えば「不自然」である。そして市場メカニズムから見て「不自然」な状況を国家が長期間維持することは一般的には非常に困難であり、不可能とはいえないかもしれないが、持続可能な手段であるかどうかやはり怪しいと考えざるを得ないということになる。


(追記)
以下のサムナーによる日銀批判をどう考えるかという質問も頂いたのでこちらにも筆者の理解を示しておく。


Why Japan’s QE didn’t “work” (March 25th, 2011)
http://www.themoneyillusion.com/?p=9404


erickqchan様による翻訳
http://econdays.net/?p=3538


サムナーは日銀批判の前提として「NGDPが目標以下の時にはQEによるNGDPの上昇は経済に好影響をもたらす」と想定しているようにみえるが、これには明確な根拠・実績がない。

何度も書いているが、量的緩和後の現在の英国は名目成長率ということで言えば約6%でありサムナー的には合格点かもしれないが、内訳としては実質成長1.7%、インフレ率4.4%の組み合わせであり、景気は悪く失業者数は過去17年間で最悪である。 震災前の日本の名目成長は2%程度でサムナー的には落第点だろうが、景気としては日本の方がはるかに良かったはずである。

つまり名目成長率が目標に達すれば経済が直ちに好転するわけではないわけということである。

次に例えば実質1.7%インフレ1.0%の組み合わせと実質1.7%インフレ4.4%の組み合わせのどちらがよいかと言う価値判断になるわけだが、サムナーは前者の方がよいと言うのかもしれないが筆者は後者の方がマシだと思っている。 (理由は「英国版リフレ政策の現在(カンタンな解説)」で書いたとおり)

日銀はQEを続ければ名目GDPを更に上昇させることが出来ることは理解したうえで、金融政策で名目GDPをこれ以上底上げすることは長期的な観点からは日本経済に望ましくないと判断してQEを打ち切っただけであり、これは名目GDPという一指標だけで見れば「妙なこと」に見えるかもしれないが、総合的にみれば「妙なこと」でもなんでもないというだけの話ではないだろうか。