英国版リフレ政策の現在(カンタンな解説)

本日(3月23日)は英国の2011年度予算案の発表日で、各種予算措置と共に今後の経済成長率見通しの発表があり、2011年の経済成長率は昨年11月の見込みから更に0.4%引き下げられて1.7%となった。


実際のところ英国の経済状況はこの数字から受ける印象よりも更に悪く、先日発表された最新のデータによると2011年2月のインフレ率(CPI)は4.4%とインタゲの中央値(2%)の2倍を超えておりリーマンショック後の最高値を記録、一方で失業率は8%とこれもリーマンショック後の最高値で、総失業者数は1994年以来の悪さとなっており、英国政府が言う通りに今後インフレ率が徐々に下がって景気が回復していくかどうかも怪しい状態である。現時点で既にスタグフレーションであるかどうかは微妙かもしれないが、その入り口付近に居ることは間違いなさそうである。 


英国の量的緩和はリフレ政策でインフレ率を上げることができた実例として高橋洋一教授をはじめとするリフレ派に取り上げられることが多かったが、リフレ政策で景気をV字回復させた例とはなれなかったようである。


では、なぜ英国版リフレ政策はこのような結果になったのだろうか?


以下、量的緩和を実施した英国のケースを「動的AS-ADモデル」を用いて考察してみる。


まずリーマンショック前の英国経済は既にバブル崩壊の兆しを見せており、2007年半ばからはポンドも下落に転じ、その影響もあってじわじわと景気が後退しながらインフレが上昇している状況であった。そこにリーマンショックに端を発した世界的な金融危機が襲い、金融が主要産業となっていた英国経済は大ダメージを受け、バブルも完全にはじけ、一気にインフレ率も下落した。



この時、英国はデフレ回避の為(或いは金融危機回避の為)に量的緩和を実施し、インフレ率の引き上げには成功したが、景気(実質成長率)は思うように回復しなかった。

又、その後、量的緩和の後始末として緊縮財政を行わざる得なくなり、総需要曲線には下振れ圧力が掛かった。 しかもポンド安と資源高により短期供給曲線には上振れ圧力が掛かっており、結果として高インフレ&低成長率(高失業率)に苦しんでいるわけである。



こうなってしまうと短期的な経済状況の動向は、本来の均衡点である(潜在成長率&ターゲットインフレ率)へ向かう動きとは殆ど無関係に見える。これは経済の安定を失わせる方向へのポジティブフィードバックが安定させる方向へのネガティブフィードバックの影響を凌駕している状況ともいえる。


インフレターゲットを採用している英中銀は現在金融引き締めへの圧力を世論から受けている。確かに金融を引き締めれば、総需要曲線は下がり、又ポンド安による短期供給曲線の上振れ圧力も緩和されてインフレ率は若干下がるかもしれない。しかし総需要曲線の引き下げは短期的には需給ギャップを拡大し、実質経済成長率も更に下がる可能性が高い。


もちろん更に緩和すればますますインフレ率が上がる。この場合更なる緩和で実質成長率が上がるかどうかははっきりしない。 緩和によるポンド安によって短期供給曲線が総需要曲線以上に上がれば、インフレ率が更に上昇しつつ実質成長率も更に下落する可能性がある。


では今のポジション(総需要曲線)を継続すればどうなるかといえばこれも好ましいとは言えない。短期供給曲線の上振れ圧力は依然かかり続けており、総需要曲線を維持したままでもじわじわとインフレ率が上がり、実質成長率が下がる可能性がある。



前回のエントリーで「同じ実質成長率(不況下)で高インフレと低インフレのどちらがいいのか」という問題を提起したが、英国の例を見る限り少なくとも金融政策によるコントロールの余地があるのは低インフレという事になるのかもしれない。 低実質成長率&高インフレの状況はインフレ率を下げならが実質成長率を上げなければならず、上述の通り金融政策にできることは非常に限られることになるし、そもそもそういうオペレーション(低成長率下でのインフレ抑制の為の金融引き締め)が可能かどうかにも疑問が残る。


長期的に見れば短期供給曲線は長期供給曲線に回帰するので、英国の高インフレもいつまでも続かないはずだ。インフレ率4.4%に対して賃金上昇率は2.3%と約半分であり、賃金の調整は確実に進んでいる。そして賃金や物価が調整された後には実質経済成長率も回復するのだろう。ポンド安も輸出産業にとってはメリットとなるはずである。そして回復に必要な期間は低インフレ下で非常にゆっくりと回復した日本より短くて済む可能性も高いと思う。それをタイムラグを置いたリフレ政策の効果だというのであれば、そういう見方もできる。

だが、そこに至るまでの英国の混乱をみてみると、そういった回復、つまりスタグフレーションを経由した景気回復、が好ましいものとは筆者には思えない。


この低実質成長率&高インフレ率という領域は低生産性産業に対する淘汰圧の高い領域でもある。「新自由主義」的にはより効率の高い経済実現の為には低生産性産業滅ぶべし、という事になるのだろうが、筆者は以前書いたが、良い低生産性産業は存在すると思うし、そういった産業が淘汰された社会は効率は良くても人々の効用が高いとは限らないと考えている。


例えば英国ではこの不況で地方のパブがばたばたと潰れている。英国におけるパブの役割は日本にいてはなかなか想像できない程高く、特に地方に於いては一種の社会インフラとも言える程重要なものと思われるが、創業100年を超えるような老舗ですら潰れているらしい。

もちろん潰れたのは生産性が低かったからであり、そういった産業に働く人々がより生産性の高い産業に移ることによって英国経済が復活する、というロジックを否定するわけでは無いが、低生産性であったとしても通常の景気循環程度であれば十分に乗り越えてきたわけである。今回はシティの人間が金融バブルを過度に膨らませすぎた挙句に国を巻き込んで破裂させたのが原因であり、その巻き添えを食った部分も大きい。又、こういった社会インフラ的な低生産性産業は一度淘汰されれば景気が戻っても元には戻らない。

よってこういった低生産性産業を守ることも重要であると言う視点からみれば、不況下のインフレは景気回復を早める効果があったとしても有害であるし、そもそもこのような状況を招いたバブルの種を蒔くような行為には非常に慎重になるべきということになる。


ちなみに英中銀の苦境を招いた要因はバブルの発生・崩壊とその後始末としての量的緩和にあるといえるが、もう一つの問題は通貨安に対する実体経済の反発力が乏しいことではないかと筆者は考えている。


通常であれば通貨が安くなれば輸出が促進され、実体経済が立ち直るきっかけになる。以前にも書いたが韓国もそのケースだろう。 しかし英国の場合、金融や資源(北海油田)でポンドが過大評価されすぎていたからなのか通貨がかなり下がっても製造業が輸出を増やす気配があまり見られない。

結果として経常収支は思ったほど改善されず、ポンド安傾向に大きな変化は見られないし、その為、輸入インフレにも歯止めがかからない(コモディティバブルの影響もあるが、)。


結局のところ英国の苦境の本質は金融に特化しすぎた経済がバブルと通貨高を通じて製造業を壊滅させた挙句にバブルが崩壊したことにあるのだろう。 


話が若干それるが、これはいかに製造業が国の安定に大切かという事を示唆していると思う。日本も金融立国になるべきだというような話をする人もいるが、筆者からすればとんでもない話である。 英国のように日本の半分程度の人口で、金融立国になる上でのアドバンテージを多く抱え、インフラのストックも豊富で更に資源(石油)すらある国でさえそれだけでは長期的な国家の安定をはかれなかった訳である。



又、英国でうまく行かなかったからといって「だからリフレ政策は絶対に失敗する」という事でもない。英国には英国特有の背景があり、日本には日本特有の背景がある。はっきりしているのは還元論的な「インフレ率を上げさえすれば景気はすぐに回復する」といった話は必ずしも事実では無いということだけである。 


そういった意味で、日本特有の背景を踏まえたうえで、「なぜ英国がこのような状況になったのか」「日本ではどうなるのか」「少しでもうまく行くためにはどのようなリフレ政策が有効なのか」「その場合にバブル等のリスクはどこまで高まるのか」「それを回避する手段はあるのか」「最終的に格差は拡大するのか縮小するのか」といった問題をミクロからマクロまで整合的に網羅した経済学的理論こそが求められているのではないかと思うのだが、日本特有の背景を本当に分かっているはずの日本のリフレ派経済学者からはなかなかそういう説得力のある理論が聞こえてこないのは残念である。