通貨を巡る対立について  −白川日銀総裁の講演より

前回に引き続き、白川総裁の講演から、「通貨を巡る対立(currency conflict)」について抜粋してみる。


通貨を巡る対立については、デフレ回避を目的に金融緩和を続ける一部先進国と、その影響で通貨高、インフレ率の上昇、資産バブル等が発生している新興国という対立軸と、為替介入によって自国通貨を割安に設定し、輸出攻勢を掛けている新興国とその輸入によって国内産業がダメージを受けている先進国という攻守を入れ替えた対立軸という二つの側面を持っている。

現在、先進国は日本を含め、自国経済の回復を実現するために極めて緩和的な金融政策を行っています。他方、新興国は高い成長期待に加え、先進国と新興国の金利差の影響もあって、先進国からの資本流入が増加しています。

このような状況下、新興国サイドからは国内経済の過熱やバブル発生、さらには将来の資本流出の可能性から、先進国の金融緩和に対する懸念が表明されています。一方、先進国サイドからは新興国の為替レートが伸縮性を欠いており、これがグローバルな不均衡の拡大を通じて世界経済の持続的成長を脅かしているとして、懸念が表明されています


ここで留意すべきは「将来の資本流出の可能性」に対する新興国の懸念であり、国内に資本が流入してくる事自体は新興国の発展を助ける面もあり、一概に悪いとは言えないだろうが、この資本は逃げ足が速く、風向きが変わったときにこのような資本が一斉に引き上げること(リ・パトリシエーション)がどれだけ自国の政治・経済に悪影響を与えるかについては新興国もアジア通貨危機等で十分に学んでいるので、この新興国側の懸念は有る意味当然の懸念であろう。


この対立軸に対して白川総裁は(1)教科書的な答えが存在すること (2)但し現状を分析すると、教科書的な答えだけでは十分でないこと、を指摘し、両方共に重要であると述べている。

教科書をみると、クリアカットな答えが用意されていますが、低金利通貨をファンデング・カレンシーとして高金利通貨の金融資産に投資するいわゆるキャリー・トレードを含め、近年我々が経験してきた様々なディレンマは教科書では十分には扱われていません。また、仮にクリアカットな答えがあっ たとしても、それに基づく政策を各国に強制する方法がない以上、現在直面している問題の解決には直ちには繋がりません。この問題については、教科書的な基本原則をしっかりと理解すること、教科書的な考え方だけでは十分ではないことを認識することの両方の重要性を強調したいと思います。


教科書的な答えは、金融緩和を行っている先進国側の主張に近いものであり

・ 中央銀行が最終的に責任を有しているのは自国の物価と経済活動の安定である
・ 故に自国の状況を見て、独自に金融政策を策定するのは正当な行為である
・ 資本の自由な移動を認める場合、資本の移動のコントロールは為替レートを通じて行われる。

という教科書的な理論から、「新興国への資本流入が過熱を引き起こしているのであれば、為替レートの上昇を容認するか、国内の物価や経済活動に影響を与える程度に応じて、金融政策の引き締めを行えば良い」という事になる。


つまり先進国の金融緩和の影響を受けて経済が過熱するのが嫌なら、新興国は金利を上げて経済を抑制すればよいし、その結果通貨高となって国内の景気が後退しても容認すべきだ、という事になる。


但し、白川総裁は教科書には書いていない重要な問題として、先進国が直面しているゼロ金利制約とバランスシート調整を上げ、教科書的な答えが上手く効果を発揮しない可能性についても言及している。

こうした原則は重要です。ただし、現在我々の手元にある教科書には、現在の経済における重要な現実―すなわち、ゼロ金利制約とバランスシート調整―は組み込まれていません。ゼロ金利制約に直面し、しかもバランスシート調整に晒されている経済主体が多い場合には、そうでない場合と比べて、金融緩和の効果は国内の主体を通じては発揮されにくくなり、むしろ、対外的なルート─資本流出や為替レートの下落─を通じて発揮されやすくなります。資本が流入する新興国の側では、近年、金融資本市場の成長は目覚しいものがあるとはいえ、市場の規模は先進国市場に比べるとなお小さく、流動性も低いのが実情です。このため、現地通貨建ての株式・債券市場にアンカバーの資本が大量に流入すると、為替レートの上昇と証券価格の上昇が同時に発生する傾向があり、為替差益と証券のキャピタルゲインの両方を狙った投機的資金の流入が自己実現的に加速しやすくなります。こうした過剰な資本流入によって国内の債券利回りが低下すると、国内の銀行貸出金利にも低下圧力がかかり、資産価格の上昇要因にもなります。為替レートの上昇を容認すれば資本流入を抑える効果は期待できますが、為替レート上昇によりインフレ圧力が抑えられ、物価が見かけ上安定していることを背景に低金利が長期化すると、国内景気の過熱やバブルを防げなくなることも考えられます。


又、上記の問題は主に新興国側の問題ではあるものの、そこでのバブルの生成と崩壊もいずれ先進国に跳ね返ってくることを指摘し、クリアカットな答えは無いとしながらも幾つかの提言を行っている。

先進国、新興国それぞれの議論に言い分はありますが、グローバル化した経済の下では、我々全員が同じボートに乗っていることを意識する必要があります。クリアカットな答えはありませんが、私 は金融政策の実行に際して、各国が以下のようなアプローチの意義について了解することが大事だと思います。


第 1 は、先進国、新興国ともに、自国の経済、物価の安定を達成するということの意味を深く考えた上で、政策を実行することです。中央銀行にとって自国経済の安定が目標であることはいつの時代も変わりはありませんが、経済、金融のグローバル化を踏まえると、自国の緩和的な金融政策や為替レートの柔軟性の欠如が海外に及ぼす影響と、それが再び自らに跳ね返ってくる相乗作用も意識した上で、自国の経済、物価の安定を図ることが重要になっています。


第 2 は、プルーデンス政策の観点からの対応措置も重要となります。この点、HKMA においては、昨年来、不動産価格の急速な上昇に対して警鐘を鳴らし、LTV (Loan-to-Value) 比率の引き下げなど様々な政策を打ち出しています。こうしたマクロ・プルーデンス政策は、固定相制を採用している香港にとっては、ひときわ重要だと思います。国内の経済の状況や金融市場の発展度合いに応じてマクロ・プルーデンス政策の手段を適切にデザインすることは、現在世界的に重要な検討課題となっています


ここで白川総裁が述べているのは、自国の金融政策が他国の経済の不安定要因となることについても、結局は自国の経済の長期的な安定成長の障害となりうることを良く考えて金融政策を決めるべきだということであり、前回のエントリーで紹介したバブル対策と見比べてもらえば分かるとおり、対策としてはほぼ同じ、但しマクロプルーデンスの観点を世界経済に広げただけのように見える。



一方で白川総裁も指摘する「仮にクリアカットな答えがあっ たとしても、それに基づく政策を各国に強制する方法がない以上、現在直面している問題の解決には直ちには繋がりません」という事実は重要であり、もし日銀が行き過ぎた金融緩和を長期的な物価と金融システムの安定にはマイナスとなると判断していたとしても、他国が極端な政策を採り続ければ同じボートに乗っている日本も巻き込まれざる得なくなり、日本だけが抑制的な金融政策をとっても損となることも考えられる。

また「為替レート上昇によりインフレ圧力が抑えられ、物価が見かけ上安定していることを背景に低金利が長期化すると、国内景気の過熱やバブルを防げなくなることも考えられます。」という指摘は日本の現状にも当てはまるものであり、日銀は単に国内だけ、或いは物価だけ、を見ているわけではなく、より広い視野で困難な金融政策の舵取りを行っていることがわかる。



当たり前の結論であるが、日銀は世界情勢を含めた金融システム全体を注意深く観察しつつ、その目標である日本の長期的な物価と金融システムの安定を達成するために最適と考えられる金融政策を様々なトレードオフ関係をバランスさせながら決定しているということであり、見かけの数値や教科書的な理論のみに基づいてそれを否定するような主張は結局のところ有意な反論にはならないはずである。




(追記)
ちなみに以前keiseisaiminの日記様で日銀の役割についてコメント欄で少し議論させていただいたことがあるのだが、そのときの議論についてhimaginary様がブクマで

himaginary ※欄でabz氏が言うように白川氏がバブル予防を本格的な課題とするつもりならば、まずは80年代後半の日本の金融政策とバブルの関係についての徹底的な調査研究を日銀の組織を挙げて行なうべきではなかろうか。

とコメントされているのを見かけた。


白川総裁はその目標の一つである「金融システムの安定」の為にバブル予防を主要な課題の一つとしていることを何度も講演等で話しているし、80年代後半の日本の金融政策とバブルの関係についても、その後のリーマンショック後の金融危機についても十分に検討した上で、「マクロプルーデンス」な観点を重要視する金融政策を行っていると筆者は理解しているのだが、日銀がバブル予防を課題としていることが経済に詳しい方にとってさえもそれほど意外なことなのだろうか?


参照: 
先進国と新興国:異なる速度での景気回復 2010/11/23
http://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2010/data/ko1011b.pdf