経済学におけるイデオロギーとゲーム理論

たびたび引用させていただいている「himaginaryの日記」さまにて「イデオロギーを内生化する」と題して経済学がイデオロギーとどう向き合うべきかについての一考察が紹介されている。

この考察ではイデオロギーを経済学に対する「偏向」と「制約」を意味すると考えて以下のように論を進めている。

  1. 経済学者が(事実に反して)イデオロギーから自由であると仮定したとしても、彼らの研究対象となる人間はイデオロギーによる偏向や制約から自由では無い。我らがイデオロギーに束縛されない経済学者は、そうしたことを考慮に入れないと、よき科学者にはなれない。
  2. 経済学者も人間であり、自身の偏向や知的制約と明示的に向き合う必要がある――もしそうした偏向や制約に抗して、利用可能な仮説や政策の中から「無制約」に近い選択をしたいと少しでも願うならば。
  3. 経済学者がいくら努力したところで、実証結果と十分に整合的な真の無制約のモデルや仮説の集合は、すべて探索して調べ尽くすにはあまりにも大きすぎるのが常である。イデオロギーは、個人的なものにせよ組織的なものにせよ、経済学上の結論をある程度は形作ってしまうものであり、経済学者はその点に責任を持ち、自分たちが意思決定の手助けをしている政治組織に自身のイデオロギーがどの程度反映してしまうかを批判的に捉えなくてはならない。

http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20110123/Endogenize_ideology


視点は違うのだが最近読んだゲーム理論の本で本質的には同じことを示唆していると思われる部分があったので少し引用が長くなるが紹介してみたい。

そちらの考察では経済のような多くのプレイヤーが互いに混合戦略をとっている状況下では、そもそも純粋に科学的な立場でそれを叙述しようとしても予測される結果も確率分布のような形にならざるを得ず、そこから「期待される」利益を最大化(or 損失を最小化)する解を導くには、結局のところ評価する人間の損失関数に掛かってくるのは避けられないと結論付けられている。


イデオロギーを経済に対する制約と考えるか経済を評価する人間内部の損失関数と考えるかという部分は違うが、結局いかに優秀な学者が科学的態度で経済学に取り組んでいたとしても、あまりに断言的に一つの結論を主張するような場合には、その背後にある損失関数についても留意すべきであるというのがここから導かれる一つの教訓であるように思われる。


以下引用は全てトム・ジーグフリード著「もっとも美しい数学 ゲーム理論」より。

合理的な人間などいない世界で

ゲーム理論では、ゲームにおけるプレイヤーの混合戦略もまた、評点やコイン投げのような確率分布で示される。ゲーム理論の狙いはプレイヤー各自にとっての(効用を最大化するとか。利得を最大にするといった)最良の混合戦略がどのようなものかを探り出すことにつきる。そしてプレイヤーが複数なら、どのようなプレイヤーがどう戦略を変えてもこれ以上よい結果は得られないような混合戦略の組み合わせが少なくとも一つ存在するというのが、ゲーム理論のもっとも重要な基本原理であるナッシュ均衡だった。


ところが、ナッシュが作った近代ゲーム理論の基礎には、いくつかの亀裂が入っていた。ナッシュが示したように、すべてのゲームにおいて(ある種の制限をすれば)、少なくとも一つはナッシュ均衡が存在するのは確かなのだが、一方で、ナッシュ均衡が一つとは限らない可能性があるゲームが多数あるのだ。こうなると、いくらゲーム理論を使っても、どの均衡点に達するのか予測できない。つまり現実世界では、プレイヤーが実際にどの混合戦略を採用するか分からないのである。それにナッシュ均衡が一つしかない場合でも、ゲームそのものが複雑になると、往々にして、スーパーコンピュータがいくつあってもプレイヤー全員の混合戦略を計算しきれない、ということになる。


この亀裂をさらに深刻なものにしているのが、従来のゲーム理論の根本となっている、プレイヤーは、自分たちの利得を計算するのに必要な情報をすべて入手でき、しかもその利得を最大にしようとする合理主義者である、という前提だ。チーズバーガーの消費税も計算できない人が大多数という現状では、こんなことを前提にするのは、非現実的である。実際の人間は、競合相手の用いる戦略のあらゆる組み合わせに対して、利益を最大にできる最良の戦略をひねり出せる「完璧な合理主義者」ではない。つまりゲーム理論はスーパーコンピュータにも不可能なことをプレイヤー全員が成し遂げられると前提しているらしい。実際、このような完璧な合理性を達成することは不可能だということにはほとんどの人が気づいており、近代的なゲーム理論では、合理性は限られている、すなわち「有界」だとすることが多い。


ゲーム理論家は、ナッシュの作り出した数学が持つこれらの限界に対処するために、さまざまな方法を作り出した。膨大なすぐれた研究のおかげで、ゲーム理論の大本の公式は工夫され、磨き上げられて、当初の「欠陥」の多くは補正されて、一つの系となった。さらに合理性にどのような限界があるのかを理解しようという努力も続いてきたが、それでも多くのゲーム理論家が、ややもすると、「ゲームを解決する」ということは、すべてのプレイヤーが最大の効用を達成できる均衡点という結果を見つけることだ、という考えにしがみつく。つまり彼らは、プレイヤーが実際にゲームを行ったときになにが起きるかではなく、個々人が利得を最大にするためになにをすべきかを、問いつづけてきたのだ。

科学者も不完全な情報しか持っていない

その際ウェルパートは均衡点を捜すとなると、ゲームを内側から、つまりプレイヤーの視点から見ることになり、システム全体を外側から評価できる立場にある科学者ならではの利点が生かせなくなる、と指摘した。内側の人間にすれば、最良かどうかが問題なのかもしれないが、外からみている科学者にすれば、なにが起こるかが予言できさえすればそれでよい(ゲームに勝とうとする必要は無い)。


ところがこの視点に立つと、実はゲームの結果には絶対に確信がもてない、ということがわかる。 だからゲーム理論という科学では、単一の答えを捜すのではなく、ゲームの先行きに関してできる限りよい予測を立てられるような解の確率分布を捜すべきだ、とウォルパートは力説する。「これは、あるシステムについて、部分的な情報しか与えらない場合には必ずいえることで、推論の果てに浮かび上がるのは、単一の答えではなく、可能性なんだ」

[中略]

こうして見ると、ゲーム理論には、もう一つ別の混合戦略が登場するらしい。すなわち、プレイヤーが選択可能な行動の確立分布である混合戦略をてにするのみならず、ゲームを叙述する科学者もまた、そのゲームの先行きとなりうるいくつかの状況からなる「混合戦略」のようなものを手にするのである。


「よく考えてみれば、わかりきったことだ」とウォルパートはいう。「生身の人間が行うゲームの場合、結果は常に同じになるとは限らない。考えられる結果が複数あるんだ。プレイヤーたちの混合戦略の組み合わせは常に全く同じになると限らないから、混合戦略そのものも、確率的に分布している。科学というのは、すべてそういうものなんだ」

予測する人によって最良のポイントが変る

これによって、ゲーム理論のレベルは明らかに、一段上がることになる。それぞれのプレイヤーが混合戦略、すなわち純粋戦略の確率分布を持っているとき、ゲームを説明しようと試みる科学者たちは、すべてのプレイヤーの混合戦略の確率分布を計算しなければならない。それでは、どうすればそれらの混合戦略の確立分布がわかるのか。無知を最大にすればよいことは、明らかだ。人間を粒子だとみなしてゲーム理論を使うのであれば、みんなの戦略の不確実さ(情報理論の言葉でいえばエントロピー)を最大にするような確率分布になっている、と前提するのが一番で、こうすると、ゲームのプレイヤーが限られた合理性しか持ち合わせていない、という前提も不要になる。なぜならこのような限界は、情報理論に基づく公式の中に自然と現れるからだ。そしてゲームの結果がどのような確率分布になるかが判明した時点で、決定理論の原則に基づいて、どのような結果に掛けるかを選べばよいのである、


「予言が欲しいときに、確率分布をもらっても、なんの役にも立たない」とウォルパートはいう。「ミサイルを撃つか撃たないか、道を右に曲がるか左にまがるかは、自分で決めなければならないんだ」


「Xだろうと予測したものが実はYだった場合に、どれくらいの傷を負うことになるのか。あるいは逆の場合に、どのくらい得をするのか」ウォルパートはいう。「ある種の予言は、はずれても、それほどひどいことにならない。なにが真実かにもよるんだがね。しかし一方で、間違った予言をしてしまったせいで、さまざまな問題が起こることもありうる・・・たとえば、第三次世界大戦がはじまってしまうとか」


この場合、決定理論からいうと、「期待される」(すべての選択の相対的確率を計算に入れること、つまりすべての選択肢について被る可能性がある損失の大きさを均すことを、「期待される」という)損失を最小にするような予測をすべし、ということになる。かくしてウォルパートの観察によると、起こりうる結果の確率分布が同じでも、ある種の予測をはずしたときに被る損失の量が人によって違うために、観察者によってゲームの結果に関する予測が違ってくる。


「いいかえれば、まったく同じゲームに対する外部の人間としての予測判断は、本人の損失関数に左右されることになるんだ」したがって、そのゲームの結果に関する最良の予言は、ゲームそのものが内包する均衡点とは一致せず、「ゲームの外側にいてゲームの結果を予測しようとしている人間」によって変わってくる。だからこそ、ゲームのもっともありそうな結果がナッシュ均衡と異なるケースが出てくるのだ。