経済学的に見れば「貧乏人は故郷を捨てるべき」なのか?

はてなブックマークのホットエントリで「貧乏人は故郷を捨てろ」か。というエントリーが注目を集めていた。(記事自体はもう5年近く前のものらしく、ご本人も不思議がっておられたが)


そこでは慶応大学の土居助教授(当時)の「貧乏人は故郷を捨てるべき」とも取れる記事に対し

経済学的な論理を前提にして言えば、確かに「移住すればよい」という選択肢が出てくるかもしれない。しかしそれはあくまで経済学的な論理のみに基づいた場合であって、人間がある土地で暮らすのに経済学的な論理だけでその選択を行っているわけではない。

と反論されている。


まず「経済学的に見て人々は○○すべし」というのはどういう意味があるのだろうか?


経済学を物理学のような科学と考えるならば、予測と異なる動きをする電子を見て「電子はこう動くべきだ」と注文をつける物理学が存在しないように、「経済学的に見て人々は○○すべし」という結論はありえない。 

よってこの場合の「経済学的に見て」というのは恐らくは「国全体の効用の最適化という視点で考えれば」という意味であるはずである。


実際に冒頭で引用されている土居氏の文章で「経済学的に」主張を述べているのは

個人の所得格差ではなく、地域間格差に目くじらを立てるのは、経済学的に見て意味のないことです。

それでも、経済が沈滞した地域に住み続けたいという住民がいるなら、それは所得以外の要素(例えば郷土愛)で低所得を埋め合わせるだけにたる効用(満足)を得ていると理解すべきです。

だから、経済が沈滞して低所得に直面しつつも移住しない住民(物理的に移住できない人を除く)に対しては、長期的に見れば、経済的に特別な措置を講じる必要はないのです

という部分であろう。 これに対しUsataro氏はに

土居氏は、経済学的な要素以外の要素を「郷土愛などの効用」などとして付随的なものとしか見ていない。

と批判されているが、ここには理論の食い違いがある。
ここで土居氏が主張しているのは所得等の「経済的な」要素以外の要素も重要な「効用」であるという事であり、各個人はそのトータルでの効用に従って自らの居住地を決めているわけであるから特段の措置を講じる必要は無いと言うことである。


つまり一部の人々が離島に住み続けること自体は各人が効用を最大化する選択をしているわけであり、国全体での効用の最適化としても問題ないが、もしその事により多大な負担を他の国民が負わねばならないのであれば、プラスの効用がその離島に住むごく少数の人にしか存在しない為、国全体としてみた最適解は「集団移住」だ、という事である。


確かに筋が通っている部分もあり、コメントでも土井氏の主張を支持する人も沢山いたが、私自身田舎出身という事もあり、上記の最適解には反対である。


まず、土井氏の主張には「田舎に住み続けることの効用」があるから人々が都会に移住しないという筋立てになっているが、実際に田舎から都会に働きに出た人間(私)から見れば「田舎に住む効用」と「都会に住む効用」を選択する前に厳然と立ちはだかるのは「故郷を離れて都会に移ることの負の効用」である。 (これについてはusatarouさんも「引っ越しなんて簡単にはできない。」というエントリーを参照としてあげられている。)


また、この負の効用を除いて考えても、

  • 美しい田舎が存続することによる国民全体の効用
  • 強制移住論のような全体主義的な主張が通ることによる国民全体の負の効用

等の点を重視すれば、都市部で得られた税収を使って田舎(地方)を経済的に支援することが国全体の効用を考えた場合の経済学的な最適解となる可能性は十分にある。
(但し現状の地方支援が適切なレベルであり、又効率的に田舎に住むことの効用を高められているかどうかについては大いに問題があると思うが、)


結局「経済学的にみて○○すべし」という場合にはその背景として効用を如何に設定するかという問題が常に存在しており、その効用の設定については評価者の個人的な思想に影響されるため、(科学としての)経済学的な理解が全く同じであってもそこから導き出される結論は大きな幅を持つということであろう。


(追記)
Usataro氏は文中の最後のほうで

新自由主義が信用できないのは、結局その思想における「豊か」さのイメージがあまりに画一的で貧困で近視眼的であるのを、うすうす感じ取ってしまうからなのだろう。新自由主義に基づいた政策なんて、とても100年、200年先の日本社会までもを考えようとして生み出された政策だとは思えない。経済学的な意味での「豊か」さを求める企業家ならともかく、歴史的に形成されてきた社会を左右する政策立案に関わる人間の考え方がこれでは、本当に大丈夫なのだろうかという疑念を感じずにはいられない。

と主張されている。これについて私も全く同意であり、社会的な問題を考える際には常に意識しておく必要がある点だと思う。 ただ、ここで言う「経済学的な意味での「豊かさ」」は、「新自由主義的な効用設定の帰結として評価される豊かさ(効用)」であり、本来の意味での「経済学的な豊かさ」とは違うはずである。