英国版リフレ政策(量的緩和)は成功だったのか?

英国の中央銀行であるイングランド銀行(Bank of England : BOE)は2009年3月から約1年間にわたって量的緩和を実施、その規模は3度の増額によって2000億ポンドに及んだ。 そして実質的にその”Printing Money”によって調達した資金で政府は金融機関の救済策や景気刺激策等の積極的な財政政策を展開した。又、イングランド銀行は90年代からインフレターゲットを採用しており、英国ではインフレターゲット、財政政策、金融政策(中央銀行による国債引き受け・量的緩和)と3拍子揃ったデフレ対策が実施されたこととなる。

イングランド銀行は量的緩和政策の実施に際し、「Quantitative Easing Explained」と称した一般向けパンフレットを作成して国民にその政策の正しさをアピールし、日本でもリフレ派を中心に好意的に受け入れられた。(参照:有志による和訳


結果として英国のインフレ率は急上昇し、2010年度の経済成長も現時点では主要先進国で最も高いレベルユーロ圏の平均値程度のレベル(?)が見込まれていることから成功事例と評価されていることが多いが、英国に住んでいる立場からミクロ的な実態をみると、正直何をもって成功したと言えるのか良く分からない。


確かに現在の英国のインフレ率は高く、デフレではない。 しかし実際にイギリスでは以下のような多くの問題が同時並行的に生じており、庶民の生活を直撃している。


・ポンド安
・物価上昇 (CPI 3%+, 食料品4%+)
・増税(消費税(VAT)&所得税)
・失業率の上昇・高止まり (〜8%)
・公務員の大幅削減計画(40〜50万人?)
・その他: 頻発する地下鉄スト・デモ



日本では円高が問題となっていることから、ポンド安まで金融緩和の「成果」だというような説も存在するが、実際にはポンド安は資源や輸入物価の上昇につながり庶民の生活を脅かしている。その影響もあり2010年度に入ってからインフレ率はイングランド銀行のインフレターゲット(2%)を大幅に上回るレベル(3.2% @2010年10月)で推移している。しかもこのターゲットはCPI(Consumer Price Index)であり、より生活実感に近いRPI (Retail Price Index)は4.5%、又食料品の価格の上昇率も4.4%と高く、その値上がりは日々の生活で実感できるほどである。



参照:Office for National Statstics



財政危機も深刻化し2009/10年度の財政赤字は1500億ポンドを超え、政府債務は2010年にはGDPの80%に達すると予測されている。 また財政を支える国債の利回りも2010年2月にはイタリア、スペインを上回る水準(4.27%)にまで上昇、5月の総選挙では財政再建を訴えた保守党が第一党となりキャメロン政権はオズボーン財務大臣を先頭に大規模な財政改革へと乗り出した。

英国では日本と異なり国債の海外投資家による引き受け割合が高く、ポンドが将来下落すると予測されれば国債利回りに大きく影響する。 国債利回りが25bp上昇する度に、2013年までに毎年負担すべき利子返済額は12億ポンド増加するとの推定もあり(参照)、利回り上昇は英国の財政にとって大きな脅威となっている。財政再建路線は英国内に多くの軋轢を産んでおり、「結果として財政赤字を増やすだけであり、日本の二の舞を演じることになる」との批判も強いが、もし財政再建路線を撤回すれば、最悪の場合国債利回りが跳ね上がり、アイスランド、アイルランドの後を追うことになりかねない。



参照:SERIJapan.org


一方でインフレ率の上昇に伴って下がるはずであった失業率も8%弱の水準で高止まりしており、更に財政危機に対応すべく数十万人に及ぶ公務員の大幅削減が待ち受けている。しかもある新聞によると最近新たに職を得た人々の大部分はパートタイムの職であり、日本でも問題となっている非正規化も進行している模様である。

又、統計は見つからなかったものの心なしか強盗等の犯罪の話もよく聞くようになってきており、知人にも被害にあった人が複数いる(まあ、もともとロンドンは決して治安が良い方ではないが、)。 公務員の削減や大学の授業料大幅値上げを受け、デモなども頻発するようになっており、景況感に影を落としている。


財政危機への対応策の一つとして実施される増税(消費税(VAT)・所得税)は当然今後、消費に悪影響を及ぼすと考えられる。特に来年1月から実施されるVAT増税(17.5→20.0%)は、消費に直接的な影響を及ぼすものであり、又、2010年度の経済成長も駆け込み需要が支えている可能性もある。 所得税の増税に対しては、対象となる高所得者の代表であり、今回の金融・不動産バブルを作り出した張本人でもあり、一連の財政・金融政策によって最も利益を得たはずのシティの銀行マンは大挙して海外に逃げ出しているようである(参照:Foreign bankers in City exodus)。


しかしながら客観的に見て英国の財政・金融政策が必ずしも間違いだったとは言えないだろう。そもそも英国はバブル崩壊を受けて国家破綻か?!という所まで追い込まれていたわけであり、緊急避難として大規模な金融機関の救済策、景気刺激策をが必要な状態だった。又結果としても金融不安の抑制や通貨安+インフレによる実質賃金低下による企業の収益力強化等については効果があった模様で、2010年は主要先進国で最も高い経済成長が達成されそうな見込みである。(但し来年1月のVAT引き上げを見越しての駆け込み需要もあり、来年度以降どうなるかは不透明、又、期待された通貨安による貿易収支の改善は殆ど起こっておらず、むしろ貿易赤字が拡大している模様。何故??)

しかし理想的にはリフレ政策がうまくいった場合、所得はインフレ率以上に上がり、失業率はインフレ率に逆相関して下がり、国債金利は完全雇用下ではないためインフレ率が上がってもなかなか上がらず財政危機は回避されるはずであったが、少なくともこれらの国民の生活に直接的に関わる部分では全く逆の事態が進行している。


そして最も懸念されている出口戦略実施時の「痛み」についてはまだこれからなのである。上述の通り英国のインフレ率はほぼ1年にわたってインフレターゲットを大きく上回る水準で推移しているが、イングランド中央銀行は現時点で量的緩和こそ行っていないものの、金利の引き上げも行っておらず、追加量的緩和の可能性すら示唆する委員もいる。来年1月に行われるVAT増税によって更に一段のインフレ率上昇も懸念されるが、その場合VAT増税に金利の引き上げをかぶせるような事が可能なのだろうか? 「インフレは短期的な現象である」と言い訳しながら、インフレ率の上昇を傍観するしか手が無い可能性もある。又、国債利回りの上昇による財政危機への影響も金利引き上げをためらう一つの要因となっているのかもしれない。


もちろん、これらの問題はもとをたどればリフレ政策の結果というより、不動産・金融バブルが崩壊した結果という方が正確であり、もしリフレ政策を実施していなければもっと酷いことになっていたという説明はもちろんいつものように成り立つ(但し英国の場合、既にインフレ率がターゲットを超えているので、量的緩和が不十分だったという説明は今回は成り立たない(はず)。)

只、その説明が正しかったとしても英国の現状は「日本でもバブル崩壊後すぐに適切な金融政策をとっていれば大きな痛みも無く経済成長を維持できた」という説に対する有力な反証にはなるのではないだろうか? 金融機関と英国企業は量的緩和によって痛みを最小限に抑えられたかもしれないが、少なくとも英国国民の多くは既に大きな痛みを感じており、さらなる困難も待ち受けているのである。


よってこれらの例から見てもリフレ政策に限らずあらゆる財政、金融政策はバブルの「発生」の防止を常に最高レベルで警戒する必要があることは間違いなく、しかも近年の先進国におけるバブルは金利の急激な上昇を伴っていないことから、金利のみを最重要指標として「一定の金利になるまでは金融緩和をコミットする」ようなリフレ政策はリスクが高いと考えざるえないのである。


(参照)
イギリスの財政危機の可能性」 SERIJapan.org
新連立政権が緊急予算を発表」 英国ニュースダイジェスト