ブラック企業と「賃金の鉄則」

前回のエントリーでは企業がブラック化する背景をゲームの理論的に考察してみたが、内容的にはある意味当たり前の話を繰り返したに過ぎない。 そもそも(低賃金企業=ブラック企業とするかどうかという問題はあるものの)資本主義制度のもとでは労働者は相対的に窮乏化する傾向があるという考察は大昔から行われてきており、その有名なものとしてはラサールが定式化したとされる「賃金の鉄則」があげられる。 

「賃金の鉄則」

ラサールが定式化した賃金理論。平均賃金は、労働者の生命の維持と子孫の繁殖とのために一国において慣習的に必要とされる最低生存費に局限される。したがって、資本主義制度のもとでは労働者は相対的に窮乏化する傾向があるという説。賃金生存費説。
http://kotobank.jp/word/%E8%B3%83%E9%87%91%E9%89%84%E5%89%87

賃金の鉄則(ちんぎんのてっそく)とは、実質賃金が長期にわたって、労働者の生活を維持するのに必要な最低賃金に向かう傾向を持つと主張する、経済学で提唱された法則である。この理論は最初に、フェルディナント・ラッサールにより19世紀半ばに命名された。カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスによれば、(特に1875年のマルクスの『ゴータ綱領批判』において)その学説はラッサールに、その着想はトーマス・マルサスの『人口論』に、そしてその用語はゲーテの"Das G〓ttliche"の中の「偉大で、永遠の鉄則」による[1][2][3]。
ラッサールによれば、労働者は最低生活の維持なしに働くことができないので、賃金は最低生活水準以下に下落することができない。しかし雇用のための労働者間の競争が、賃金をこの最低水準まで追い立てるだろう。これは賃金が「最低生活賃金」の上にあるとき人口は増加し、下にあるとき減少するという、マルサスの人口理論から導かれる。そして理論は、労働需要が実質賃金率による所与の単調な減少関数であると仮定すると、システムの長期にわたる均衡の中で、労働供給(すなわち人口)は最低生活賃金で要求される値と一致するだろうと予測した。その根拠は、賃金が高くなると、労働供給が需要に比較して多くなり、供給過剰を生み出して、それにより市場実質賃金を引き下げ、賃金が低くなると、労働供給が下落し、市場実質賃金が上昇するということである。これは一定の人口で最低生活賃金の均衡へ向かうダイナミックな集合を生み出すだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%83%E9%87%91%E3%81%AE%E9%89%84%E5%89%87


しかし、歴史上この「鉄則(という名の予測)」は「鉄則」というほどには実現してこなかった。 その理由についてはリカードが以下のように考察している。

デヴィッド・リカードが気づいたように、新しい投資、技術、またはある他の要素が人口より速く増加する労働需要を引き起こしさえすれば、この予測は実現しないだろう。この場合、実質賃金と人口の双方ともが時間に伴い増加する。人口推移(国の工業化に伴う高い出生死亡率から低い出生死亡率への推移)は、賃金を最低生活賃金よりもはるかに高いものへ誘導し、発展した世界の大部分でこの原動力を変化させた。まだ急速に拡大する人口を持っている国でさえ、技能労働者の必要性が、他のものよりはるかに速く上昇する賃金を引き起こしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%83%E9%87%91%E3%81%AE%E9%89%84%E5%89%87


賃金の鉄則を引き起こすのは「賃金が高くなると、労働供給が需要に比較して多くなり、供給過剰を生み出して、それにより市場実質賃金を引き下げ、賃金が低くなると、労働供給が下落し、市場実質賃金が上昇するということである。これは一定の人口で最低生活賃金の均衡へ向かうダイナミックな集合を生み出すだろう。」という人口論的な考え方であるが、リカードが考察したのは何らかの要因によって人口の増大による労働供給の増加速度以上に労働需要が増加すれば実質賃金が最低生活賃金の均衡へと向かうことを阻めるという考えである。

(尚、ここでの「実質賃金が最低生活賃金の均衡へ向かう」ということはもちろん経済の成長が止まるということではなく、経済の成長の果実が労働者ではなく資本家(地主)へと集中するということ。「経済が成長し続けさえすれば実質賃金が上昇し続ける」というわけでは無い。)


ここで、現在の先進国を見てみると人口成長率は日本を筆頭?に低下しており、人口論的な労働供給の増加による実質賃金の低下圧力が掛かる状況では無いように見える。 しかしながら筆者は経済のグローバル化が先進国における労働の需給の緩和に繋がり、「賃金の鉄則」で予測された実質賃金の最低生存費への局限が(少なくとも一部で)進んでいるのではないかと考えている。

経済のグローバル化、特に発展途上国における投資環境の改善、は資本家にとっては投資先の多様化となり、また労働者にとっては競合相手の増加という事になる。 仮に自国民の人口が増加していなくても移民が大量に流入してくれば実質賃金の下落が促されるし、移民という形を取らなくても貿易を通じて安い賃金で作り出されたものが広く流通すれば(移民に比べれば弱いながらも)同様の圧力が生じる。 


一方で、全ての労働者の賃金(或いはその平均)が最低生存費に局限されるという状況ではない事も明らかである。 ワーキングプアと呼ばれるような労働者が多数いる一方で、高額所得者も多数存在する。これは技術の発展は依然として続いており、一部の労働市場では労働需要の伸びが(その市場が必要とする高機能な人材の)供給の伸びを上回り続けていることを示しているのではないだろうか。つまりリカードが示したような「賃金の鉄則」の予測が実現しない為の条件は生き続けているという事になる。


以下は以前のエントリー(「米国における経済格差拡大の推移 」)でも掲載した1970年以降の米国における世帯所得の推移を以下に示す。 インフレ率を考慮した上位5/20/40/60/80%の世帯の所得の推移を示したものであるが、所得上位と比べ所得下位の世帯は過去数十年間にわたり殆ど実質所得が伸びていないことがわかる。


では資本主義制度のもとでは(一部の優秀な人々を除く)労働者は相対的に窮乏化することを受け入れなければいけないのだろうか? 


その答はイエスなのかもしれないが、たとえイエスであったとしてもブラック企業やワーキングプアの存在が不可避であるかどうかは別問題、というのが筆者の理解である。 


リカードは「賃金の鉄則」に関し、「労働の市場価格が最低生活または自然賃金を長期にわたって超えることができると信じていただけではなく、自然賃金は物理的に労働者を維持するのに必要なものなのではなく、「習慣と慣習」によるのだ」と主張している。 つまり「相対的に窮乏化」するとしても、その均衡する水準は必ずしも物理的に生きていけるギリギリである必然性は無く、文字通り「健康で文化的な最低限度の生活」が確保される賃金水準が「習慣と慣習」による最低生活賃金であっても良いわけである。その手段としては国民の意識の改革も必要なのだろうが、より直接的な手段としては政府による再分配の強化が考えられる。 政府の介入は経済成長にとってはマイナスになる可能性はあるが、これが資本主義制度が内包する問題であるなら何らかの介入無しに自然に解決される可能性は低いだろう。

もちろんそれでも「相対的な窮乏化」は進むのかもしれないが、高額所得者には程遠くても普通に定時で働いてそこそこの生活ができるだけの賃金をもらってそれなりに幸せな人生をおくるという選択肢は多くの人にとってそれなりに価値があるもののはずであるし、そういう選択肢がない先進国というのは生きづらい社会になってしまうのではないだろうか。