クルーグマンが正しくても、TPP参加はやはり雇用を悪化させる

前回はリカードの著作からの引用を基に、TPP参加でどのような圧力が経済に掛かるかを考察した。この考察が正しければ、資本の国家間の移動が容易な状況で外国貿易が拡張すれば、資本の利潤率は上昇する一方で、労働価格は均一化していくことになる。 しかしこの考察はリカードのモデルが「収穫逓減」をベースにしていることに拠る所が大きい。

一方で、リカードの「収穫逓減」をベースとしたモデルに対して、「収穫逓増」をベースにした新貿易理論を提唱しノーベル経済学賞を受賞したのがクルーグマンである。 では、このモデルをベースにすればTPP推進のメリットがより明らかとなるだろうか?


残念ながらクルーグマンによるTPPそのものについての詳しい考察を見つけることは出来なかったが、昨年12月に韓国とのFTAに関して「Trade Does Not Equal Jobs」という記事を書いており、その中で自由貿易について以下のように言及している。

自由貿易についての一つの事実は、それは世界経済をより効率的にするかもしれないが、需要の増加には全く寄与しないということである。


それについては貿易の増加は現状では米国の雇用を失わせることになるという論すら存在する。もし米国が労働者一人当たりの付加価値の高い職を新たに得る一方で付加価値の低い職を失い、支出が同じであるなら、それはGDPが変わらず、仕事が減るという事を意味しているという事になるからである。

以上の言及が示唆するところ、自由貿易は需要の増加には寄与せず、それ故に労働者一人当たりの付加価値が高い産業が比較優位である国にとってはその拡大は雇用の悪化圧力となりうるということではないだろうか?


又、若干状況は異なるが、クルーグマンがテキサスの好景気について述べたエントリー(「The Texas Unmiracle」)の以下の箇所も自由貿易観を伺えるように思われる。

テキサスの事例が示しているのは安価な労働力と、それより重要度では劣るが、ゆるい規制は他の州から雇用を呼び寄せることが出来るという事である。 ただ、その観察に対する適切な反応は「それが何か?」ってとこだろう。 ポイントは米国全体で賃金を抑制し規制を緩和すれば雇用が増えると主張するなら、それはペリー氏が主張しそうなことで、かつ彼の経済学ではそうなるのだろうが、それは合成の誤謬を犯している。 全ての州が全ての他の州から雇用を引っ張ってくることが出来ない事は明らかである。


しかしながらクルーグマンは自由貿易に批判的というわけではない。 例えばクルーグマンはインタビューでNAFTAについて以下のように言及している。

司会: 
民主党の候補者はNAFTAについて、それは1990年代には米国経済に貢献したかもしれないが、現時点においては雇用の流出を促す一方でその穴埋めができていない事が明らかになっており、我々は条約を再検証し、相手国に対してより厳しい労働条件と環境に対する規制を求めるよう交渉すべきであると語っています。 これについてどう思われますか?


クルーグマン:
この件については注意して考える必要があります。


確かに労働条件と環境に対する規制は良いことではあります。 それは実際にそれを進めることによって我々全てが利益を得られることの一つです。


しかし、雇用に関して言えば、もしそれが全く他国に流出しないならば、得られるものも又何もないでしょう。 ある程度の産業の再構築は必要なのです。 それが実際にNAFTAに関して今起きていることでもあります。


私が考えるに、NAFTAについての問題点は、実際にはNAFTA自身のものでも、又メキシコについてのものでのありません。 それは落ち込んでいる米国経済によるもので、わらわれが国内で雇用を創出できていないことによるものです。


もし北カロライナの雇用が今まさに海外との競争に敗れて流出しようとしているとしても、その雇用はかつてはニューイングランドの物であり、北カロライナとの競争に敗れて流出していったものだったのです。 つまりはサイクルだという事です。


これはきっととても非情に聞こえるでしょう。 「では実際に雇用を失う人々はどうなるんですか?」と。


その答えは、米国はその景気を拡大し、古い仕事を代替する新たな仕事を作り出すべきということです。 同時に、社会保障を拡充し、人々を過大なリスクから守る必要もあります。

http://www.liberaloasis.com/krugman.htm

以上のクルーグマンのコメントは事実認識部分について言えば非常に納得できるものであると思う。 ここに提示されているのは、自由貿易によって先進国の既存の雇用の一部は安価な労働力を持つ国々へと流出し、先進国はそれに変わる新たな仕事を作り出すことでそれを埋め合わせ、結果として先進国、発展途上国共に更に豊かになっていくというシナリオである。 しかしながら、このシナリオについての最大の問題は「古い仕事を代替する新たな仕事を作り出す」ということが世界経済のフロントランナーである先進国にとっては至難の業だということだろう。

クルーグマンはその国際貿易理論の業績に加え、ケイジアン的な、或いはリフレ的な主張でも有名(むしろ日本ではこちらの方が有名?)であり、ここでも拡張的な財政政策や緩和的な金融政策がその助けになるという趣旨かもしれないが、筆者はそういった「新たな仕事」は先進国においてはある種のイノベーションを通じてしか生まれ得ないと考えている。 


よってこのシナリオに沿って説明するなら筆者が考える先進国にとっての自由貿易への理想的な道筋は「新しい仕事」が生まれた分だけ「古い仕事」が流出していくようにコントロールしつつ、自由貿易化を漸進的に進めていくというものである。 一気に自由貿易を加速させれば、労働力の安売り合戦となる可能性があるが、それはクルーグマンがテキサスの例で指摘したように根本的な解決にはならない。 全ての国が他の国から雇用を引っ張ってくるわけにはいかないからである。  


以上の点を考えると、クルーグマンの考察に従っても、急速な貿易自由化は(雇用の悪化・労働力の安売り合戦を経て)資本の利潤を上昇させるだけで、国民の幸せに直結しなさそうだという結論は前回のエントリーと殆ど変わらないといわざる得ないだろう。


[追記]
話は横道にそれるが、「新しい仕事」が生まれないのに「古い仕事」が流出し、それを補うべく「booming economy」をやれば、「仕事」としての実体のない所が「booming」してしまう。 「新しい仕事」が生まれる速度はコントロールできないのだから、その他の政策はこの速度に併せるべきであり、観念的な、或いは経験的な「理想の速度」を目安にして経済政策を打ち続けていては歪みが拡大し続ける事になる。それがバブルという事ではないのだろうか?