「学術的な議論、現実における帰結」- クルーグマンによるFRB評 (翻訳)

クルーグマンがFTでFRBの金融政策(QE2)についてのエッセイを掲載していたので翻訳してみた。


学術的な議論、現実における帰結(理屈っぽい)
Academic Debate, Real Consequences (Wonkish)
http://krugman.blogs.nytimes.com/2011/08/26/academic-debate-real-consequences-wonkish/#h[]


ジャクソンホールに注目が集まる中、この政策論争の背後にある幾つかの歴史について少し話してみるのも有用だろう。

まず1997年頃の正統的金融政策から始めてみよう。その時までにはほとんどのマクロ経済学者は中央銀行は経済の安定化に関する全責務を担うことができるし、担うべきであると信じるに至っていた。積極的な財政政策は必要なく、中央銀行がやるべきことをやりさえすれば十分な経済の安定性が保たれると信じていたのであり、私もこの見解を共有していた。


しかし同時に、一部の人間は日本がゼロ付近まで金利を切り下げたにも関わらずデフレに陥ろうとしていることに気付き始めていた。これは本当に使い古された古い「流動性の罠」が再び私たちを悩ませに戻ってきたということだったのだろうか?

多くの経済学者は当時の日本の状況について、それが非常に特殊な状況-ゾンビ銀行!-を反映しているか、或いは日本銀行がやるべきことをやっていないだけ、として気にかけなかった。恐らく私が日本が実際に流動性の罠に陥っており、その存在が神話ではなかったと述べた最初の人間であったはずだ。 私がこの結論に至った過程は以下の通りである。つまり私は当初、モデルによって金融拡張(monetary expansion)はゼロ金利においても有効である事を示そうとした。しかしモデルの結論は反対であった。そして、私は流動性の罠が現実に存在すると気付かされることになり、その前提に沿った論考を1998年の論文に示した。

その論文で示したのは、流動性の罠において有効な唯一の金融政策は「期待」を経由したものであるという事であった。ここで言う「期待」とは中央銀行は流動性の罠から抜け出した後でも金融拡張(monetary expansion)を継続するという事を公衆に確信させる必要があるということである。このアイデアは後に他の人々、特にEggertsson and Woodfordによって拡張され、Lars Svenssonによって研究が続けられている。 このような先端的な日本研究はほぼ全て2000-2001年にプリンストン大学で行われた。

しかし、日本を研究していた一人、ベン・バーナンキ、は、多少異なる見解を有していた。彼はそのような「期待」に多くを寄らなくても、FRBが非標準的な公開市場操作を行うことでより直接的に成果が得られると信じていた。私はMike Woodford同様にその見解には懐疑的であった。しかしどのようにそれらの異なる見解を検証することができただろうか?


さて、バーナンキは、今 Master of the Universe FED議長であり、彼は実際に実験 - QE2- をやってのけた。そしてその実験の結果は現在広く失望とみなされている。それ(QE2)がある程度は機能したのは、結局主に期待を変えることによってであり、FRBが金融拡張を(流動性の罠を脱した後も)維持するつもりではないという事に市場が気づいた途端、その効果は消えてしまった。


今、Mike Woodford はFinancial Timesで、バーナンキはバランスシートをいじるをやめて、かわりに将来の政策についての明示的な発表を行う必要があると主張している。Woodfordの主張を読むにあたって理解しておくべき重要な点は、これは単なる思い付き(shoot-from-the-hip)ではなく、十年以上にもわたる議論の集大成であるということである。


Cullen Rocheも同様の主張をしているが、彼はMMT(Modern Monetary Theory)が必要だと主張しており、それはWoodford(と私)にとって新しい主張である。

私は、この記事に「理屈っぽい(Wonkish)」というラベルを付けたし、事実その通りである。しかし、これは本当に重要な点である。 FT Alphaville が指摘するように、QEについてのすべての懸念は見立て違いされている。危険なのはそれが過度にインフレ的だということではなく、我々が本当に実質を必要としているときに、それは実質(real)ではなく、象徴的(symbolic)だと言うことである。

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以下筆者の感想。 邪魔という声もあり後ろに移動し、同時に一部追記した。

これを含む幾つかのエッセイを根拠にクルーグマンが「リフレ派を攻撃している」という見方もあるようであるが、最終的にクルーグマンが主張している対策も(リフレ派の主張によれば)リフレ的政策の範疇に入るものであり、「リフレ派を攻撃している」とまとめるのは若干強引過ぎるだろう。

攻撃しているとすれば、流動性の罠にあっても、非伝統的な金融政策、つまり資産の買い入れ(QE2)、によって直接的に効果を上げることができるという考えであり、これは新しい主張ではなく、流動性の罠下では単なる金融拡張は意味を持たず金融政策は「期待」経由でないと効果を発揮しない、という従来からの自説に沿ったものとなっている。

一方でMMT(Modern Monetary Theory)の支持者については、このエッセイでは「which would be news to Woodford (and me)」としか述べていないが、他のエッセイ(参照)等を読む限り、理論としてMMTを認めているわけではなさそうである。

俗に言う「リフレ派」の主張はクルーグマンの主張、バーナンキの主張、MMTの主張全てを同時に含んでいるように見えるものが多い。しかし背景となる理論が違うのであれば、それらの主張をミックスするのはおかしい。クルーグマンの理論をベースにするのであれば、QE2的なリフレ政策やMMT的な主張は捨て、クルーグマンがその理論を基に主張する政策を中心に主張すべきでだろう。

(そういう意味ではクルーグマンが「リフレ派を攻撃している」という見方は若干強引だと述べたが、「MMTをベースとしたリフレ派の(個別の)主張」をクルーグマンが攻撃・否定しているというのは別に間違っていないはずである。)

このあたりの主張が呉越同舟的に「リフレ派」としてひとくくりになって主張を繰り広げている事が「リフレ政策」に関する議論の混迷を深めることに繋がっているのでは無いだろうか?(個人的には特にMMTをミックスしているのは弊害が大きいと思う。)



[追記]
筆者の感想部分について、

> で、バーナンキの言うように期待に働きかける手段(FRBに出来ること)はいっぱいあり、まずバーナンキは量的緩和という手をとった。それを見ていて、イマイチ効果が弱そうなので、ウッドフォードは将来の政策パスの表明という別の手を提案し、クルーグマンも賛成した。

>単に、過去の蓄積がないからどれが一番効果的かは分からず、量的緩和がイマイチなら別の手やってみなよ、というだけの話で背景の理論が異なるわけではない

とコメントを頂いたが、これは本当にそういう「だけの」話だろうか?


まず、「それを見ていて、イマイチ効果が弱そうなので・・・」の部分はクルーグマンの書いてる論旨と相容れないはずである。 「重要なのはこの議論が単なる思い付き(shoot-from-the-hip)ではなく、十年以上にもわたる議論の集大成であるということである」と最後に念を押しているのは、結果をみて「イマイチ効果が弱そうなので」というような理由で別の手を提案してるわけではなく、そもそもFRBに出来ることは限られていて量的緩和はSubstanceはなかった、その事はやる前からクルーグマン達の理論でははっきりしていた、ということを意図しているはずである。

 
このエッセイの構成自体が、流動性の罠における金融政策についてクルーグマン達のViewとバーナンキのViewの二つがあり、バーナンキは自身のViewに基づいてQE2を実施した(実験した)が、その結果は失敗だった( That experiment is now widely viewed as a disappointment)。そして、その失敗はクルーグマン達のViewに寄れば予期されたものだった。

つまり学術的な議論を経て、バーナンキの「View」に基づいて行われた(実験された)リフレ政策はクルーグマン達の理論が予期したとおり失敗したのだから、これ以上間違ったViewに基づいてバランスシートをいじるようなことはやめろ、と言うことであり、「単に、過去の蓄積がないからどれが一番効果的かは分からず、量的緩和がイマイチなら別の手やってみなよ、というだけの話で背景の理論が異なるわけではない」という話ではない。


むしろこのクルーグマンの論説をそういう話に矮小化することは、このエントリーのタイトルである10年以上にわたる「Academic Debate, Real Consequences (学術的な議論と現実の帰結)」を軽視するものであろう。